金永會の万葉集イヤギ 第13回

哀痛の歌を生んだ悲劇416番歌
日付: 2024年06月04日 12時04分

 飛鳥時代の終わり頃、悲運の皇子がいた。そして、飛鳥時代はこの悲運の皇子とともに暮れる。
大津皇子(おおつのみこ)の母は太田皇女(おおたのひめみこ)だった。太田皇女には、妹の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)がおり、姉妹は1人の男・天武天皇に嫁いだ。大津皇子の叔母にあたる鸕野讃良皇女にも息子の草壁皇子(くさかべのみこ)がいた。
大津皇子は幼いときに母を亡くし母親なしで育ったが、品位があり学識が深かった。大津皇子はまわりの人々から、一つ年上の異母兄の草壁皇子より秀でていると言われた。鸕野讃良皇后は、自分の所生でない皇子たちも同じく扱うと約束したが、2年も経たず草壁皇子を皇太子とした。そして、父の天武天皇は、すべてのまつりごとは皇后と草壁皇太子に報告するように、と命じ亡くなった。
天武天皇の崩御から1カ月も経たないある日、驚くべき知らせが伝えられた。大津皇子の謀反が発覚したという。皇子は直ちに捕らえられた。そして翌日、鸕野讃良皇后は詳しい調査もせずに皇子に対する処分を決める。

「賜死 皇子大津」(日本書紀 持統天皇条)
皇子は自分の屋敷で死を命じられた。24歳の若さだった。このとき、皇子の屋敷の磐余(いわれ)池の鴨が甲高く鳴いて寂寞を破った。妃の山邊皇女(やまのべのひめみこ)は髪を振り乱し、裸足で走り出て皇子と共に死んだ。皆がすすり泣いた。

大津皇子が死を前に作った歌がひとつ、万葉集にある。その416番歌を郷歌製作法で解いてみる。

百傳 磐余池尒 鳴 鴨乎
今 日 耳 見哉
雲隱 去 牟

死ねと催促する声が百回も聞こえてくるね、磐余池の鴨よ。今、日が暮れるのが見えるね。雲は夕焼けに染まっていくね。

この千年の間、この歌は次のように解されていた。 百伝ふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ 見てや 雲隠りなむ(広く伝わる磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を限りで、私は死んでいくのだろう)

主要な句を解読してみる。
百傳 「死ねと催促する声が百回も伝わってくるね」(早く自尽せよという言葉を百回も伝えているという意味だ)
磐余池尒 鳴 鴨乎 「磐余池で鳴いている鴨よ」 「磐余池」は固有名詞なので漢字の意味で解かなければならない。磐は「ためらう」、余は「あまり」である。つまり磐余は「ためらったあと」となる。 自決しろと催促しても、皇子はためらいながら泣いていた。そして、もっと大きな悲劇が生じた。
今 日 耳 見哉 「今、日が暮れるのが見えるね」
ここが416番歌の核心の句だ。日は「天皇」、耳は「八代の孫」、哉は「災い」という意味であり、「これから天皇の8代目の孫まで災いに遭う」という呪いを隠した句なのだ。

 哀痛の歌を生んだ悲劇416番歌<続く>


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