大韓民国の建国史351

産業革命の戦士を育成するため教育制度を変えた朴正煕
日付: 2024年05月21日 11時41分

 朴正煕政府の重化学工業政策が軌道に乗り始めた1976年から78年の製造業の年平均成長率は16・6%に達した。オイルショック後、海外建設進出(主に中東地域)にも高級技能工なしには不可能だったが、短期間でどうしてこのような人材の養成が可能だったのか。
大韓民国が「10月維新」を通じて農耕国家から短期間に重化学工業国家に変貌する過程については内外に数多くの研究があるが、その中に1970~80年代の「産業戰士」と呼ばれた大韓民国の1世代の男性技能工たちの成長史に関する優れた研究がある。豪州国立大学のキム・ヒョナ教授と延世大学の柳錫春教授の共同研究だ。『週刊朝鮮』に紹介された研究内容の一部を転載する。
両教授が2011年に書いた『1970年代の技能工の養成と峨山・鄭周永』という論文には、例えば、重化学工業を始めた73年に新規で労働市場に進出した58万人の学力を分析すると、60年生まれの97万人の中、小学校を卒業し中学校へ進学していない28万人と、57年生まれの89万人のうち中学校を卒業し高校に進学していない14万人、そして54年生まれの76万人のうち高校を卒業し大学に進学しなかった16万人で構成されていた。
つまり、労働市場新規参入者の過半数が小学校卒程度の学力だった。熟練技能人力がいなければ不可能な重化学工業の成功のためには革命的政策が必要な状況だった。
革命の始まりは朴正煕政権が行った「特殊」工業高等学校(以下工高)の育成からで、このために大々的な教育制度の改革が続いた。朴正煕政権の工高育成は、機械工高、示範工高、特性化工高などエリート工高を特別指定するか、新設し、予算を集中投資する方式で行われた。
このうち73~79年までに19校が誕生した機械工高は、鉄を100分の1ミリ以下に削ることができる精密加工士を養成する学校で、精密機械、配管、金属、電気、溶接、工業計測などの専攻が設置された。城東機械工高、ソウル機械工高、釜山機械工高などが代表だ。一般工高での学費免除の奨学生の割合が15%水準だったのに対し、これらの機械工高は50%以上の学生が学費免除の恩恵を受けるなど政府の破格な支援があった。在学中に精密加工士2級資格証を取得すれば、年間10万ウォンという当時としては相当な奨学金を支援した。
示範工高は、海外進出、特に中東進出に必要な技能工のうち、機械組立、板金、溶接、配管、製管、電気工事などを専攻する人材排出を目的とし、76年から市・道ごとに1校ずつ11校を育成した。中東建設輸出を主導した大林産業と現代建設などが学生1人当たり20万ウォンずつの運営費と実習材料費を学校に提供する「委託技能人材養成方式」で運営された。大林産業が龍山工高など8校に2億1000万ウォンを支援、現代建設が大邱工高など3つの工高に9000万ウォンを支援した。
示範工高の第1回卒業生たちは、2月の卒業式にも出席できず1月に中東へと立った。17・18歳の少年たちを中東に送ることに対して、朴正煕大統領と呉源哲経済第2首席は、「こんな若造たちを中東へ送っても大丈夫か、ひど過ぎではないか」「閣下、若造でも精神武装がよくできていて大丈夫です」「信じて良いのか。当分は示範としてやってみよう」と話し合ったという。つまり、卒業生たちが砂漠のような劣悪な環境で働く状況を憂慮し示範的に運営するというのが学校名に定着したのだ。
(つづく)


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