大韓民国の建国史350

産業革命の戦士たちを毎年5万人養成せよ
日付: 2024年05月15日 05時03分

 産業化には教育を受けた膨大な人材が必要だった。だが、韓国は日本の植民地を経ながらも工業化、産業化に必要な人材を養成、確保できなかった。農耕国家だった歴史を考えると当然の現実だった。1年に1万人でもなく5万人の技能工の養成・確保は、常識では到底達成できない目標だった。革命的発想と措置が必要だった。
実は、遠くない歴史の中に教訓があった。韓国は6・25戦争で共産全体主義の侵略から生き残るため死闘を繰り広げながら短期間に60万人の国軍を建設した。もちろん、米国の援助なしには維持できない状況だったが、現代的な軍隊を建設、維持することは高度な技能と極度の効率性を追求するものだった。つまり軍隊を維持することは、国民を人間資源として教育、訓練することだった。毎年軍隊で5万人の高度技能人材を養成すればよいことになる。
朴正熙将軍が中心となった5・16軍事革命が成功したのも、当時、韓国で軍が最強の精鋭集団だったから可能だった。60万国軍が、韓国が組織的に養成、保有できた最高の人材プールだった。将校団は同時に最も有能な経営者集団でもあった。特にベトナム戦派兵を通じ世界舞台に進出、挑戦する経験を積み始めた。
事実、軍事革命政府は、最初は貧困対策の次元で人口増加の抑制が課題だった。1960年の合計出産率は6人で、後進諸国の中でも最も出産率が高かった。当時、韓国の人口成長率は年3%で、約23年ほどで人口が倍になった。60年の人口構造は65歳以上の高齢者は総人口の2・9%と非常に低いが、幼少年(0~14歳)人口が42・3%で急増、働ける生産年齢(15~64歳)人口は54・8%でやっと半分を超えた。幼少年の扶養負担が大幅に増加、国民全体の生活の質を高めるのに大きな負担となっていた。
62年から政府主導で人口増加抑制政策が施行され、急増していた出産率は60年を過ぎてから落ち始め、70年には合計出産率が4・07人になったが、出生児数は71年までに再び年間100万人を超えるベビーブームが起きた。60年代より後、出産率は持続的に落ちたが、可妊期(15~49歳)の女性人口が増えたためだ。
このように人口増加を抑制せねばならない状況で、産業化に必要な訓練された人材は絶対的に不足の状況だった。人間の開発は必然的な道だった。朴正煕大統領は重化学工業化(自主国防工業化)による技能人材の大量需要の前にすでに科学教育を強調した。朴大統領は68年に国民教育憲章を制定した。
国民教育憲章の「(前略)学問と技術を学び身につけ、生まれながらの各人の素質を啓発し、われわれの立場を躍進の足場として、創造の力と開拓の精神を養う(後略)」の全文をすべての学校で覚えるようにした。要するに、あらゆる挑戦や逆境を機会にするという進取的精神が韓国社会を支配するようになった。
実際、植民地と6・25戦争は封建体制の解体機会となり、国軍は産業革命の土台を、将校団はリーダーシップと経営の土壌を生み、「1・21事態」は自主国防精神を触発させた。維新体制と重化学工業は韓国の産業化に必要な人材を爆発的に排出するきっかけとなったのだ。
朴正煕大統領は70年代、様々な方法で数多くの熟練技能工を育成した。3年制工業高等学校あるいは短ければ6カ月、長ければ2年過程の職業訓練員を通じて排出された技能工は、重化学工業化を宣言した73年から朴大統領が亡くなる79年まで80万から100万人の規模だった。

(つづく)


閉じる