新解釈日本書記「続」応神 幻の大和朝廷 第38回 伴野麓

日付: 2024年05月01日 12時42分

 沸流百済は自らの存在を黒子にし倭地を簒奪

戦前の歴史家たちは皇国史観の思想のもと、日本を神国と信じ、『記・紀』の神話をうのみにしていたのだが、戦後はその反動からか、崇神以前を神話としてその多くを否定してしまった。神話を無条件にうのみにするのも問題だが、だからといって長年伝承されてきた話を、神話伝承だとして全面的に否定してしまうのも問題だ。
19世紀のドイツ人シュリーマンは、幼い頃に聞いた「ホメロスの叙事詩」に出てくるトロイア戦争の伝説から、トロイア遺跡を発掘したのは有名な話だ。伝説から史実が発掘されたもので、以後の古代ギリシャ史は一変したという。『記・紀』も同様で、その伝承の中から史実が顔をだすことが多々あるかも知れない。
たとえばの話、出雲神話は後の時代につくられたもので、考古学的な資料はほとんど出土していないと言われていたのだが1984年(昭和59年)の夏、出雲の荒神谷遺跡から358本の銅剣が一挙に出土した。そのことから出雲神話は後代につくられたものではなく、古代にあった歴史的事実をおぼろげな形で伝承している可能性のほうが強くなったということだ。
沸流百済は、海上王国として早い時期から中国の地に植民地を築いていたと考証されている。そうであれば、倭地にも食指を伸ばしていたであろうことが考えられる。その一つが、沸流百済の影響下にあったと思われる伽耶諸国のある一国だったと考えられる。
ところが、荒蕪の地であったろう倭地の統治は思うようにいかなかったと思われ、ながらく放置されたような状態になったと考えられる。その間に、伽耶諸国の人たちが、百済や新羅に圧迫されて倭地に逃げ込んだと思われるのだ。
そうした状況のなかで、高句麗広開土王に撃破された沸流百済(利残国)が倭地に逃避し突如、大和に侵寇して百済系大和王朝を樹立し、アマノヒボコ王朝などの新羅系山陰王朝を簒奪したと考えられる。そのことが、新羅系山陰王朝の猛反発を招くと予想されたことから、秘密裏に進めたと思われるのだ。
それゆえ、沸流百済は自らの存在を黒子にし、深く静かに倭地に浸透してその実権を奪ってしまったということだ。祭祀権は、従前どおり新羅系山陰王朝に温存させ、政治権力だけを掌握するという手法をとったと考えられる。それは、辰王を戴いて実権だけを掌握して、馬韓を百済に衣替えした手法と同じだ。
そのような理由から、沸流百済が倭地の領知者であることを隠すために崇神を創作し、偽装したということだ。当時は情報が閉鎖された時代であり、新羅系山陰王朝の構成者らはその偽装が読めず、次第に百済系大和王朝に臣属させられていったと考えられる。
謎の世紀の一側面を神社伝承が語っている。


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