「緊急措置」は、通常の計画や措置では期待できない成果を収めた。
朴正煕大統領は、金泳三・金大中など守旧政治家たちや彼らに動員された一部の青年学生などの反体制勢力、そして平壌側の対南工作勢力に対しては強権を発動したが、彼が国民に約束した「国力結集による経済的跳躍」という約束を守った。
2回の経済開発計画が成功したことで、経済専門家と政策関係者たちが自信を持って市場機能を重視、各種誘引策で民間部門の企業活動を促進する政策に転換する。そして、この基礎を築くため、一切の抵抗・挑戦勢力を抑え推進した重化学工業化は、ニクソンショック、オイルショックなど国際秩序と経済環境が激動する中、特に同盟のワシントンの牽制と圧迫の中で強行された。
「民主主義の暗黒」と非難された「維新体制」と「緊急措置」期間中、韓国の経済成長率は1972年7・2%、73年14・9%、74年9・5%、75年7・8%、76年13・2%、77年12・3%、78年11・0%、79年8・7%(韓国銀行統計)だった。資源を効率的に動員した成果だった。
第3次経済開発5カ年計画(72~76年)の基本目標だった産業構造の高度化と均衡成長という目標は、重化学工業(鉄鋼・輸送用機械・電子工業・造船・化学など)の育成と資本財の輸入依存縮小を通じ経済の自立化基盤を固めるのに成功した。
国民貯蓄率は所得増加や貯蓄手段の多様化などの政策で、71年の19・6%から76年21・4%に増加した。事実、「緊急措置」は政治だけでなく、経済活動でも何度も取られた。
「8・3措置」(72年、全企業に対する私債凍結と調整、特別金融措置などを主な内容とした大統領緊急命令)など果敢な緊急措置で企業金融も大いに改善された。「企業公開促進法」制定および企業公開を強制する「5・29措置」などで企業公開を強力に推進した。韓国経済は次第に後進国のくびきを抜け新興工業国としての面貌を整え始めた。75年頃から韓国経済が北韓を圧倒し始めた。
朴大統領は自力成長を目指す第4次経済開発5カ年計画(77~81年)に着手、輸出100億ドル達成(77年12月)と1人当たり国民所得1000ドル突破(77年)を確認しながら、長期成長のための投資と制度整備にさらに拍車をかけた。総合行政情報網構成のための行政電算化10カ年計画を作り(78年2月20日)、全国土の土壌精密調査を完了(78年2月23日)した。
政治的、社会的葛藤による国家のエネルギー消費を最小化した韓国は、数多くの後進諸国が欲しい国家的インフラを短期間に獲得、確保するようになった。
78年4月、古里原子力発電所が竣工された。71年に起工から7年ぶりだ。朴大統領は将来の所要に備えて国土開発と電源開発をさらに加速した。忠州多目的ダムが着工(78年6月)され、78年12月31日には主要都市間の長距離自動公衆電話が開通した。経済成長の結実は国民の生活を加速度的に便利にした。
78年8月30日、釜山で第24回国際技能オリンピック大会が開幕した。この日は韓国の産業化、重化学工業化において記憶すべき日だ。朴正煕大統領が73年、重化学工業政策を本格推進した際、呉源哲経済首席は朴大統領に報告した。毎年5万人の技能工が養成されねばならないということだった。
だが、現実は71年、大韓民国全体の技能工は5000人にもならなかった。
(つづく)