『さきわい』が意味するもの
『幸』の訓読みは前回取り上げた『しあわせ』の他に『さいわい』というものがある。『さいわい』を効果的に使った詩に、カール・ブッセの「山のあなた」を思い浮かべる方も多いだろう。ドイツのCarl Busse(1872~1918)の「Über den Bergen」という詩を上田敏が名訳にして翻訳詩集『海潮音』で紹介したものだ。
山のあなたの空遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
噫(あぁ)、われひとと尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
上田敏は翻訳にあたって『幸福』を使わずに『さいわい』を使った。『さいわい』の古語は『さきわい』である。神社にお参りに行くと賽銭箱の近くに「祓(はら)え給い、清(きよ)め給え、神(かむ)ながら守り給い、幸(さきわ)え給え」と唱え言葉が記載されているが、その『さきわい』である。
原意は「咲き賑わう」という意味で、花が咲き誇っている様をいう。これは、たくさんの花のそれぞれが「天から与えられた命に感謝し、その思いや喜びを一所懸命に天に返している姿」なのである。これが言霊(ことたま)となり『さいわい』となった。
同じことを意味する言葉に、釈迦が生誕時に語った「天上天下唯我独尊」というものがある。しかし釈迦の生誕地インドや、思想が伝わった中国ではこの言葉はついぞ根付かなかった。唯我独尊どころか、カーストや科挙の名残を利用した差別は現在でも人々を苦しめている。かように『幸』の漢字の原意と『しあわせ』『さいわい』の意味するところは違うのだ。
日本と韓国でサッカーワールドカップが共催された二〇〇二年、SMAPの「世界で一つだけの花」が空前のヒットとなった。「ナンバーワンではなくオンリーワン」という主題に人々の心が打ち震えた。それは『さいわい』という幸福感が深層にあったからなのである。
『さいわい』が育んだオタク文化
日本では古代から、多民族、多氏族が融合して独自の文化を築いてきた。平安初期に書かれた新撰姓氏録という古代氏族名鑑には、京及び畿内地域の氏族の出自が記されている。それによれば、掲載されている全氏族一一八二氏のうち、三二六氏が渡来系となっている。京及び機内地域に限定されるものの、実に三割弱が海外から移住した氏族だったのだ。
新撰姓氏録中表紙
この、様々な背景を持つ多氏族が一つになって国づくりに邁進した歴史が『さいわい』という幸福感を育んだ。
『日本一』という言葉がある。これは海外からの移住氏族と古来からの氏族が一つになって作り出した言葉だ。『日本一』とは「ナンバーワン」ということではない。「どんな分野でもいいから、その道のプロを目指しなさい」と親は子に言い聞かせる。日本では職業に貴賎はない。人々は、自分の与えられた分野で『まこと』を尽くす。『日本一』を目指すからだ。「ナンバーワンではないオンリーワン」を目指すのである。
人々はそのような文化に憧れて日本に根を下ろした。朱子学のピラミッドの中では職人は永遠に下層の人々であった。しかし、『日本一』を目指せば職人はヒーローになることができる。オタク文化はそういう幸福感から醸成された。
漫画やアニメを作る人々は一コマ一コマに命をかける。序列ピラミッド文化の中では手作業の世界に重要な意味を見出すことは難しい。百年以上存続している企業の数が世界一多いことも、世界で最も長く続いている企業が日本にあることも、そこに『さいわい』という幸福感があったからに他ならない。さて、次回は『幸福』の続きとして『福』の字の意味を考えてみることにしたい。(つづく)
加羅氏・呉氏・三間名公がみえる
水間 一太朗(みずま いちたろう)
アートプロデューサーとして、欧米各国、南米各国、モンゴル、マレーシア、台湾、中国、韓国、北韓等で美術展企画を担当。美術雑誌に連載多数。神社年鑑編集長。神道の成り立ちと東北アジア美術史に詳しい。