新解釈日本書記「続」応神 幻の大和朝廷 第35回 伴野麓

日付: 2024年04月09日 12時13分

 開化の葛城王朝、つまりホアカリ=ニギハヤヒ系の大和王朝が突然終焉したと考証されているのだが、その理由は不明だという。ここに、沸流百済の侵寇をあてはめていけば、終焉の理由はおのずから明らかになるというものだ。
『記・紀』では、ホアカリ(火明)6世孫の建田背が抹殺されているのだが、『海部氏勘注系図』によれば、この建田背は、大日本根子彦太瓊(孝霊)の時代に丹波国の宰相、その後、山背国に移り、さらに大和国に移り、葛木高田姫を娶ったという。
建田背には、高天彦、大宇那比、大己貴、天御蔭、建日潟、清日子、日高彦などの多くの別名があり、そのなかの大己貴を例にとれば、スサノオの子の大己貴と同名であり、あるいはその大己貴のモデルにされたのではないかと考えられる。
換言すれば、建田背という多重人格の人物がズタズタに解体されて、『記・紀』の登場人物のなかにその細切れが埋め込まれているのではないかと考えられる。だから、その建田背こそが日本古代史の謎を解く一つのキーワードではないかと思われる。
建田背が本拠とした丹波国は、現在の丹後半島がその中心地であったとされ、丹波大県の所在地は竹野川流域であったという。その丹波地域で国造りを進めたのは伽耶系渡来集団であったといい、一大鍛冶集団の丹波道主一族に繋がるという。竹野川流域には神明山古墳や黒部銚子山古墳、網野銚子山古墳など巨大古墳があり、古代の一大製鉄コンビナートとされる遠所遺跡などもある。
丹波道主も〝磯〟を通じると天日槍の後裔ということになるのだが、婚姻を通じてのものという可能性もある。丹波道主は『日本書紀』の表記で、『古事記』では比古多多須美知能宇斯王と表記されるが、美知は道、宇斯は大人の意で主に通じる。大人(うし)という名称は烏丸系種族の官号と解釈されている。
彦坐王(日子坐王)はアマノヒボコと同一人物という可能性もあり、アマノヒボコ一族が息長族と称されるようになったと思われる。開化がアマノヒボコと同一人物であるなら、当然の帰結ということになり、彦坐王=天日槍の三丹征討譚はホアカリ一族との争闘を暗喩している。


沸流百済はホアカリ=ニギハヤヒ王朝 の事績を簒奪

新羅系山陰王朝と百済系大和王朝について随所に言及しているが、それらの王朝の名称は、どの史書にも出ていないはずだから、戸惑う人も多いだろうと思われる。


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