663年8月28日、韓半島西海岸の白村江の戦いで、倭国軍が唐の水軍に大敗した。それから10日後の9月7日、百済軍の最後の拠点であった州柔城まで降伏してしまった。
百済人たちは言った。
「(韓半島南端の)弓禮城に行き、倭国の将軍に会ってどうすべきか話し合おう」(日本書紀)
そして9月25日、倭国軍が弓禮城から船で倭国へ出発した。韓半島からの撤収である。州柔城陥落から弓禮城撤収まで、わずか18日間だ。その間に戦略会議があり、撤収の決定が下されたはずだ。数万人が出兵して長く戦争をしたのに、たった18日で撤退が断行される。完全な撤退は、倭国軍の現場の指揮官が下せる性格の事案ではない。最高権力者の中大兄皇子だけが下せる決定である。
中大兄皇子がその時、本営の福岡にいたとすれば、連絡責任者が大急ぎで対馬海峡を渡り、戦況を中大兄に報告した上で、再び戻りその命令を伝えるべきだ。往復旅程から見て、18日で全軍の撤収が行われるのは事実上不可能。迅速な撤退が可能だったのは、中大兄が南海岸の弓禮城にいたという証拠である。
中大兄皇子が出席して戦略会議が開かれたはずで、深刻な意見の対立があった。中大兄は戦争継続の立場だったはずで、中大兄の方針に大海人が露骨に反旗を翻し、5人の部将が同調した。刃傷沙汰まで起こる。下剋上だ。中大兄皇子が煮え返る湯のように怒りながら、大海人と5人の部将に弓を向ける。 射ち殺す(射)! 立て(立)!
しかし、中大兄はもはや戦争を続けられなくなった。下剋上によって亀裂が生じた指導力ではどうすることもできなかったのだ。結局、最終命令が下される。
「撤退せよ」
こうして西暦663年9月25日、撤収が行われる。 その場に女流歌人の額田王がいて事件を歌にしたのだ。
「大 相七 兄」
中大兄が太刀打ちで生を終えるようにしたまえ。
このとてつもない呪いの歌を、大胆にもか弱い女性一人が作れるわけがない。下克上があった夜、大海人皇子が額田王と寝屋を共にし彼女に体を重ねながら、「中大兄も今の御前のように真っ二つにしてこそ事が済むのだ」と言ったはずである。
兄を裏切る衝撃的な話だった。身体を合わせ熱く火照った男女の間では、いかなる裏切りの話でも言えないことはない。額田王は大海人皇子との営みで疲れ切った状態で、恋人の言うとおりに9番歌を作り、呪力を入れた。大相七兄という総毛立つ歌は、そのように作られたはずだ。この呪いはその後、壬申の乱で現実になる。
中大兄の前での刃傷沙汰の後、倭国軍は撤収する。
700年、百済は夜空の流星のように長い尾を残し歴史の闇へと消えてしまう。
弓禮城は現在の韓半島の南端、寶城郡冬老城と推定される。そこには、百済の遺民たちが倭国軍と一緒に異国へ立ったという話が伝わっている。当時使用した入り海と、撤収する兵士たちが飲んで帰ったという井戸が残っている。亡国の遺民たちの霊を慰める「冬老城祭り」も行われている。
万葉集は歌で記した歴史書なのだ。
誰も理解できなかった歌、万葉集9番歌<了>