私が出会った在日1世~金石範と4・3事件② 安部柱司

岸信介首相がもくろんだ在日党員の一掃
日付: 2024年03月26日 12時00分

 金石範を川口市の自宅に訪ねたのは、私が日朝協会東京都連の理事を務めている70年代初頭であった。紹介してくれたのは金達寿だった。用件は、日朝協会都連が朝鮮語の教師を求めていたからである。金石範は朝鮮語を教えるのは安宇植が適任だろうと述べた。金石範の紹介で安宇植が朝鮮語の教師に就くことになる。
朝鮮語講座の教師は従来、朝総聯から派遣されていた。だが、突然に中断され、講座の閉鎖に追い込まれていた。それで都連の役員の私が教師を探したのであった。

1968年、金日成が「帰国運動」で日本から北へ渡った在日朝鮮人のうち日共党員の粛清を行ったことが伝わってくる。日共と北朝鮮労働党(北労党)の関係悪化は日朝協会の活動にも影響を与える。もともと日朝協会は日共から在日の党員が籍を外していく過程で結成された組織であった。
表向きは朝鮮との友好関係を促進する団体であったが、一番の活躍はいわゆる「帰国運動」の促進だった。
後に拉致問題で知られる佐藤勝巳や、日共党員として朝鮮に関わる著作を幾つも出していた萩原遼などは、在日の「帰国運動」の促進に尽くしている。二人は当時の日朝協会の役員であった。そしてこの「帰国運動」を歓迎したのが、当時の岸信介首相だった。

岸信介首相が帰国運動を大歓迎した理由が伝わっている。それは、日本の治安問題を考え、日共の武装闘争を支えた在日の一掃を狙ったからだ。このことで、岸信介首相は日共とも朝総聯とも利害が一致していた。
岸信介首相は火炎瓶を飛ばさせなくて済む日本の未来を考え、日共は武装闘争を支えた在日党員の一掃によって党の歴史の書き替えを図った。そして朝総聯では、韓徳銖が主導権を確立するために朝総聯の先行組織・民戦活動家の送りだしを狙いとしていた。

旧民戦系は結成から南労党の朴憲永の指導を受けていた。民戦の活動家の多くは日共党員であった。
北労党内の日共系への粛清は、日共にも影響を与える。さらに日共と友好関係を保持していた在日にも衝撃を与えていく。金達寿などは日共の国際派に所属していたから、極めて宮本顕治と仲が良かった。しかし、民戦系の活動家の多くは日共の二つの論敵を受け入れていた。民戦はアメリカ帝国主義とその走狗の日本独占資本の二つの敵と戦った組織であった。むろん、そういう認識は国際派に所属していた金達寿も保持していた。

朝総聯の韓徳銖議長と金達寿は盟友であった。二人の戦後史は二つの論敵によって結ばれていた。ところが、金炳植副議長は北からの指示を受け、平壌文化語の普及活動を活発に行うなかで、二つの論敵を否定し、主体思想を強調する。主体思想とはアメリカ帝国主義と戦い祖国を守った金日成の教えを基礎に構築されていた。だから、敵はアメリカ帝国主義一つに集約されている。
金炳植は平壌文化語の普及を軸に主体思想を体現し、二つの論敵の金達寿の排除に乗り出し、次に韓徳銖議長の椅子を狙っていく。その過程で敵をアメリカ帝国主義に絞れない人々が朝総聯から離れていった。金石範もその一人であった。

『季刊三千里』誌の創刊号で金石範は朴正熙を民族の敵だと表現しているが、同じ年に刊行された第3号の「済州島4・3武装蜂起について」で、「アメリカは南朝鮮全域における革命的なたたかいの根を絶つために、まずゲリラ闘争の震源地である済州島を抑圧する必要があった」と述べている。
米軍と共に、韓国軍とその走狗の西北青年団を敵に挙げている。金石範においては、日共と同じく敵は二つであったのだ。


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