新解釈日本書記「続」応神 幻の大和朝廷 第32回 伴野麓

日付: 2024年03月19日 13時54分

 『記・紀』では欠史9代といわれ、事績が記されていない孝霊だが、孝霊朝に大神を奉斎したのは宇摩志麻遅の後裔である物部氏族の大矢口宿禰で、その人物が孝霊の実体かと思わせる。
ホアカリ(火明)6世孫の建田背が、孝霊朝の人物で、孝安の兄である天足彦国押人と同一人物と見なされ、あるいは孝霊の実体ではないかとの疑念を湧出させもする。
つまり、『記・紀』編著者らによって、建田背の事績がズタズタに改竄されて〈孝霊記・『日本書紀』〉などに取り入れられたのではないかという疑念だ。それを隠すために、『記・紀』では、その後の丹後を辺境の地であるかのように扱い、無視するかのように扱っている感がある。
その当時の丹後は、韓地と直結する先進の地で、その核心的な勢力が海部直氏で、物部氏や尾張氏と祖神を同じくする同族なのだ。
タラシヒコ(日本足彦)大王である孝安から、ヤマトネコ(大日本根子)大王である孝霊に代わったのは、磯城系勢力から葛城勢力に代わったということであると考証されているのだが、それは、磯城勢力より葛城勢力が優位だと主張する持統帝・藤原不比等らの謀略で、それが『日本書紀』に反映されているというのだ。それに対して、『古事記』は、天武帝・太安麻呂らの磯城系勢力の主張を反映しているという。
とまれ、タラシヒコもネコも、その語源が韓語の古語にあるということだから、タラシヒコ大王もネコ大王も、ともに韓地からの渡来人大王ということになる。あるいはアマノヒボコであり、あるいは『三国遺事』に記す延烏郎・細烏女説話において、日本の大王になったという延烏郎であったかもしれない。
いずれにしても『記・紀』は、”韓隠し”の書であり、その偽史が平安時代の”日本紀講筵・竟宴”という宮廷行事によって正史化され、後世、それを正当化するための論述があれこれとなされ、偽史が拡大再生産されているということだ。

〔孝元紀〕

新羅辰韓勢力と百済辰韓勢力が倭地で合流

孝元が都した軽の地は、韓の地のことで、孝元も韓(伽耶)から渡来した人、またはその子孫かもしれないことをこれまで明らかにしてきた。また〈孝元紀〉は、孝元自身については何も語らず、大彦と彦太忍信を語るためにあるようなものだという指摘もある。
孝元の子の大毘古(大彦)は四道将軍の1人として北陸道に派遣されたというが、実際は、孝元の片腕として日本海に沿う伽耶系押海海人王国の領土を開拓したといい、阿倍臣・膳臣・阿閇臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣の7族の始祖と伝える。
阿倍氏の実体は、押海(アッペ)氏だという。押海は、全羅南道の木浦沖に広がる多島海で、一番大きな島が押海島(アベトゥ)と称されている。押海の語義は南海ということだといい、その海域で生活していた海人族が倭地に移動して、アベ(阿部)氏を称したというのだ。
三韓つまり辰韓、馬韓、弁韓のうち、辰王を擁く辰韓勢力は南下して漢江付近で二手に分かれ、一方は東海岸に出て新羅勢力となり、もう一方は辰王を擁いて西海岸に行き百済勢力となった。その新羅辰韓勢力と百済辰韓勢力がともに倭地に渡来して合流した可能性がある。


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