金永會の万葉集イヤギ 第3回

新羅王を呪い殺した歌_万葉集8番歌
日付: 2024年03月12日 12時22分

 661年1月、額田王は寒風が吹きすさぶ海辺で新羅の王が亡くなるように祈っていた。その時、彼女は斉明天皇に随行し、難波(今の大阪)から船に乗って筑紫に向かっていた。倭国の首脳部が、新羅と唐の連合軍の攻撃を受けている百済を救援するため西征に出るためだった。筑紫には百済救援軍の本営が設けられる予定だった。国の滅びる危機に瀕した百済が、急ぎ倭国に派兵を要請したのだ。
斉明天皇が言った。
「百済が切迫した救援を要請してきた。その願いを無下にはできない。軍隊を新羅に送り、その悪人の首を切り落としなさい(「其鯨鯢を剪る」、『日本書紀』・斉明天皇条)」(「剪其鯨鯢」=「悪人の首領の首を切る」の意)
斉明天皇が首を切り殺せと命令した悪人の頭とは、新羅の太宗・武烈王である。
天皇の船は熟田津という船着き場に一時停泊していた。その年の1月14日だった。この日、額田王は「悪人の首を切り殺せ」という斉明天皇の命令を受けて歌を作った。それが万葉集8番歌である。

熟 田 津 尒 船 乘 世 武
登 月 待 者
潮 毛 可 奈 比 沼
今 者 許 芸 乞 菜

これを韓国で新しく発見された「郷歌製作法」で解読すると以下のようになる。
「熟田津で船に乗っているなぁ、世の中の武士たちが。(悪人の頭の首を熟した黍の穂のように切り)昇る月を待つことにしよう。満ち潮のように一斉に沼に(押しかけよう)。これから力の限り武術を奮えるよう、祈らなければ」
しかし、従来の万葉集研究者たちは、この作品にまったく違う解釈をしている。
「熟田津(にきたつ)に、船(ふな)乗りせむと、月(つき)待てば、潮(しほ)もかなひぬ、今は漕(こ)ぎ出(い)でな〔熟田津で船に乗ろうと月を待っていたら潮が穏やかになった。さあ、今こそ漕ぎ出そう〕」
8番歌は、兵士たちが悪人の頭(鯨鯢)の首を切れるように(剪)と祈る内容の歌だ。ところが現在、日本の研究者たちの解読によれば、この歌がなぜ作られたのか判明していない。8番歌解読のための筋道には、この1400年余りの間、濃い霧が厚く立ち込めていた。では、「郷歌製作法」にしたがって8番歌を一節ごとに読み解いてみよう。
熟田津で(尒)船に乗って(乘)いるなぁ、世の中の武士たちが〔熟田津尒船乘世武〕
熟田津は船着き場の名だ。「郷歌製作法」には固有名詞法というものがある。郷歌に登場する固有名詞の意味は、その歌を作った意図と関連しているという法則である。郷歌解読において最も強力な道具だ。だから熟田津の持つ意味を見つけなければならない。
熟という漢字は「熟す」、田は「畑」を意味する。つまり穂が実った畑を意味する。ここに驚くべき訳が隠されていた。畑の農作物が熟したらどうするのか。鎌で穂を切る(剪)べきだ。「秋、畑に行って熟した黍の穂を切り取るように(剪)、戦場に行って新羅王の首を切り落とそう〔剪其鯨鯢〕」

新羅王を呪い殺した歌、『万葉集』8番歌〈つづく〉


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