古代史万華鏡クラブ~韓日古代史の謎を解く 講師:勝股優

カマドや味噌・箸~韓日古代の食文化
日付: 2024年03月12日 10時11分

 前回は古代の韓日における動物との関わりについて書いたが、面白い話を書き忘れた。アヒル論争である。
日本列島の古代史にとって稲作の伝来ルートも大きな謎である。中国の華南や長江下流域から伝わったことは間違いないようだが、山東半島などから韓半島西部や南部に伝わり列島に来た説と、東シナ海を渡って直接伝わったという二説が有力である。アヒル論争というのは、華南の中国人はアヒルが大好きで、今も稲作民はアヒルと暮らしている。稲は当然人間が運んできたのだが、直接伝来したのならアヒルも一緒にやって来て、そこにアヒル文化が生まれるのが自然。しかし日本列島ではアヒルはほとんどいず、あまり馴染みのない存在であり、稲作は半島を経由して韓半島の人が伝えたのではないかという論理である。
動物も古代史の謎を解く鍵になるという話であるが、稲作の伝来に触れたのだから、今回のテーマは「古代の食文化」としよう。

日本文化は古来「吹き溜まり文化」と言われてきた。風に吹かれて雪などが一カ所に溜まった状態にたとえたのだが、時間はかかるが黙っていても北から南から、そして西域の先進文化が積み重なっていったのだから悪い話ではない。
伝わったのは稲だけではない。日本でいう縄文末期ごろの慶尚南道の金海貝塚から大麦、小麦、大豆、粟、小豆、ソバが検出されており、その頃九州地方に韓半島から穀類や雑穀類が本格的に渡来したと推測されている。在来の穀類はほとんど無かったようだ。伝来は北九州ルートだけではない。例えば東日本のカブ(蕪)はヨーロッパ種、西日本は中国種と分かれており東日本の日本海側に大陸からの往来があったことがわかる。
とはいえ、列島の食文化はほとんど半島を経由している。例えば味噌。大豆の原産地は中国東北部の旧満州。江戸時代の政治家で学者の新井白石は、古代、韓半島にかけて住んでいた貊族の醤は高麗醤と呼ばれ、その方言が「密祖」で、それが列島に伝わり味噌になったと研究している。今、日本では製法が違い、古代製法の味噌玉を見ることはできないが、韓国ではメジュとして残り、テンジャン、カンジャン(醤油)として使われ、とても美味しい。
お酒はどうだろうと調べてみたら、古事記にあった。応神天皇のころ、百済から来た須須許理という人が麹を使う方法でアルコール度が高い酒を大量に造ったという。濁り酒であろう。京都府の京田辺市の佐牙神社に祀られており、近くに墳墓があることが確認されているという。
日本人は多くの物や文化が遣唐使によって中国からもたらされたという教育を受けてきたように思う。しかし遣唐使は260年の間に長安に到着したのは12回、全員が無事帰国できたのはたった1回だったという研究がある(諸説あり)。ところが新羅とは668年から最後の遣新羅使が派遣された779年までの百余年の間に来訪した新羅使は47回、日本からは25回も行っている。公式の通交だけでこの差である。21年に1回に対し1年半に1回である。その時代より昔の百済との往来も頻繁だったと推測できる。確かに多くの文化や物は中国で生まれたではあろうが、それらは韓半島を経由して伝わった。食文化も同様だ。例えばコンニャクは中国発祥だが、6世紀半ばに医薬用として韓半島から伝来したという記録がある。

韓半島から伝わった食に関する文化の中で重要なものを一つあげろと言われたら、カマドとそれに使う甑と答えたい。炉(今の囲炉裏のようなもの)での煮炊きは煙ムンムンで火力も弱い。それを革命したのがカマドである。土や石で築いた囲いの中へ熱を溜め、煙道(煙突)で煙も処理できる。渡来人により2世紀ごろ伝えられたが定着せず、5世紀に入って普及し始めたらしい。同時に甑も使われるようになる。たくさんの孔があいた焼き物で、そこから蒸気が上がり蒸せるという仕組みで、料理のレパートリーが増えることになる。米は土鍋で煮る粥から蒸す強飯が中心となる。室町時代あたりから現代風の姫飯に移ったようだが、強飯は赤飯、栗ご飯、松茸ご飯などとして日本人の食のDNAを刺激して現代人を喜ばしている。
もうひとつ謎がある。中国では漢や後漢時代には箸や匙を使っていた。韓半島も古くから箸・匙文化であったことが遺跡から確認されている。ところが日本では箸が確認されるのは奈良時代の遺跡からで、それ以前は皆無だという。大量に発掘されるのは鎌倉時代になってかららしい。もちろん匙は発掘されない。庶民、いや貴族も手食であったのか? 解けない謎だ。


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