仲間うちで、一般的には金達寿との別離を「労働運動家の安部の自己弁明」と受け取られていた。いいかえると、金達寿の軍事政権下での韓国訪問を容認するのは、通産省の労組である全商工の活動家の安部の日常の発言と矛盾しているということであった。
70年代を通して、私は韓国軍事政権を批判していた。後に、90年代になって『AERA』誌の長谷川熙記者は、通産省職員に共産党員が多いからココム禁輸品の対共産圏輸出を黙認しており、北朝鮮などへのココム禁輸品の輸出を白状しろ、と迫ってきた。白状できるわけがない。長谷川熙記者は私を左翼と見ていた。
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金達寿との別離は突然の決意であった。その突然は筑摩書房の編集者とのやり取りに端を発した。編集者は「安部さんの書いている”技術史から見た日本と朝鮮”は売れません。8千部売れないと出版はできない」と述べた。即座に私は8千部売れないなら仕方ないが、数千部は売れるだろうから、金達寿先生に他の出版社を紹介して貰うと答えた。
それに対して筑摩書房の編集者の言葉は、「金達寿先生は別の出版社を紹介しない」というものであったが、実際には「金達寿先生は”技術史から見た日本と朝鮮”を評価していません」ということであった。
その瞬間に私は全てを悟った。「技術史から見た日本と朝鮮」は『第三文明』誌に連載していた。その連載原稿を引き揚げさせ、『季刊三千里』誌に連載させたのは金達寿であった。その『季刊三千里』誌での「技術史から見た日本と朝鮮」が、焼きものの伝承を語っているうちは無難であった。
無難でなくなって行くのは、西南雄藩に連れられて来た朝鮮人の動向を描写する過程で生じた。
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文禄慶長の役で日本へ渡って来た朝鮮人は薩摩・長洲・土佐・肥前の四藩(以下、薩長土肥)を始め、主として西日本へ、10万人をはるかに超えている。当時の日本の人口の1%に相当した。現代だと100万人に当たる。
金達寿は従来の「帰化人」という表現を「渡来人」に書き改めさせる「運動」をおこなっていた。では、文禄慶長の役を機に日本へ渡って来た朝鮮人も「渡来人」と表現するのだろうか。当時の資料は「強制連行」的に表現されている。
戦時中、労働力の欠乏した日本へ100万人を超える朝鮮の青年が渡ってきた。それらの青年群を朴慶植は「強制連行」された人々と表現した。
私は、明治維新の立役者であった薩長土肥を深く調べていった。その過程で明治維新の芽は、これら薩長土肥に連行されてきた朝鮮人の文化、持って来た技術が徳川300年間に醸成された結果だと気付いた。
そこから秀吉の死亡で朝鮮半島から引き揚げる過程で「連行」してきた、と指摘されているが、果たしてそうなのか?という疑問を抱いた。西南雄藩で「強制連行」してきた朝鮮人を直ちに藩上層部に用いるだろうか?という疑問である。
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古代に朝鮮から列島へ渡ってきた人々が大和王朝を築いた、古代文化は朝鮮に由来する、だから「帰化」したのではなく「渡来人」と書き直させる金達寿の仕事とはどこかそぐわない、私の作業があった。私の場合は、藩官僚として登用されるが、それはあくまでも使われている側の者であった、つまり「帰化」と考えた。
金達寿と私の分岐点は「渡来」と「帰化」の問題を含み、私の「技術史から見た日本と朝鮮」は金達寿のナショナリズムを刺激していたのだった。