私が出会った在日1世~金達寿の歩いた道⑨ 安部柱司

朝鮮知識人の矜持は「負け惜しみ」か
日付: 2024年01月30日 09時36分

 金達寿の訪韓は1981年3月である。翌4月に上京し、金達寿から韓国の話を伺う。それが金達寿の肉声を聞いた最期であった。それ以後、97年5月に金達寿が77歳で死去するまで、会うこともなかった。
佐藤勝巳は79年12月に私が東久留米市内の公務員住宅から筑波郡谷田部町(現在のつくば市谷田部)に引っ越したことを知ると、助手として役立たなくなったので捨てられたのだ、と慰めてくれた。安宇植は金達寿の元を離れたことは良かった、と評価してくれた。
その評価の内容を理解するのは、全斗煥政権で中枢を支えた許文道氏の訪問を受け、私の朝鮮総督府施政下の歴史研究が認められてからであった。

金達寿が私を忌避せざるを得なくなったのは、『季刊三千里』誌に私が「加賀の火矢所と朝鮮」を寄稿してからだと、今にして理解される。金達寿と私の分岐点は、その折に決定的なものとなった。
『季刊三千里』誌の79年の19号の特集は、「文化から見た日本と朝鮮」であった。その特集の巻頭を姜在彦の「朝鮮の儒教・日本の儒教」が飾り、次に金達寿の「神々のふるさと」となっている。
特集の「文化」から、金達寿の「神々のふるさと」までの道のりは遠く、婉曲した信仰を語っている。巻頭の姜在彦の「朝鮮の儒教・日本の儒教」も、儒教を論じてはいるが、文化を論じたものとは言い難かった。
私は、奥村正二の『火縄銃から黒船まで』(岩波新書)から、加賀前田藩に伝承した文化に深く関心を寄せ、金沢まで足を運んで調査を深めていた。その成果として、加賀の火矢所が朝鮮王朝の「冶所」を伝承したモノであり、加賀の「焔硝製造所」は朝鮮王朝に存在した「火薬監造庁」の技術的伝承であったと述べた。
加賀前田藩の藩制の多くに朝鮮の朱子学者の提言が見られ、次の20号の「加賀の細工所と朝鮮」において朝鮮の翰林学士であった金時省の息子の金如鉄が主導的な役割を果たしたことを文献実証学的手法で明らかにした。
金如鉄は加賀前田藩の重臣である。三代藩主の利常から五代藩主の綱紀まで、金如鉄はおよそ30年間も藩官僚の最高位を務めていた。金如鉄は日本名を脇田直賢といい、史書(『加能郷土辞彙』)などには「元朝鮮の人」と記載されている。
「朝鮮の人達は日本に合併されたあの空白の間にも、自分達の国が、日本の文化の母であるという自尊心だけは失っていなかった。」(『朝鮮問題事典』、79頁)とは、植民地統治下の朝鮮知識人の矜持でもあった。
金達寿には「文化の母」とまで述べる朝鮮知識人の矜持が、負け惜しみに写っていたのであろう。金達寿が古代史中心に日本の歴史を論じていたのは「負け惜しみ」を認めたくなかったのだろう。

金達寿は解放前、1940年代前半の朝鮮総督府施政下での京城で朝鮮人の姿を見ている。したがって、加賀前田藩の朝鮮人が藩制を仕切っていたということを広く知らせるのは「日本の文化の母」であると負け惜しみを言っていた朝鮮知識人の流れを容認することに通じると考えたのであろう。
朝鮮総督府官僚を務めた、いわゆる「親日派」の容認などしたくなかったのだろう。
明治維新後になると、加賀前田藩士の子弟の野口遵と市川誠次の日本窒素肥料の朝鮮進出がある。
それらのことを認めたくない、日本の植民地統治を容認したくない、金達寿のナショナリズムがそこにあったのだろう。


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