私が出会った在日1世~金達寿の歩いた道⑧ 安部柱司

朝鮮技術者が加賀藩の火薬製造を伝搬
日付: 2024年01月16日 12時49分

 国会図書館に通い、地方誌史類を読破していく中で、文禄慶長の役についても調べるようになった。すでに、奥村正二の『火縄銃から黒船まで』(岩波新書)を読んでいたので、加賀前田藩に伝承した火薬の製造技術に深く関心を寄せていた。新書の刊行が1970年だったと思うが、その頃わざわざ金沢に赴いている。
火薬のうち、黒色火薬は中国で発明され、モンゴル来寇の折には鎌倉武士をさんざん悩ませている。鉄砲(火縄銃)伝来は種子島だが、その伝搬が戦国時代に別れを告げさせ、日本を統一させる。火縄銃は器用な日本の職人が瞬く間に真似し、堺・近江の国友などが鉄砲鍛冶を発展させた。

火縄銃は、当然だが火薬があってこそ武器として機能する。火薬の原料は、硝石・硫黄・木炭であった。硫黄は豊富に日本で産出した。木炭も簡単に作られている。だが、硝石(硝酸カリウム)は日本では採れなかった。気候の面で雨が多いことも関係している。硝石は輸入したのである。
文禄の役では、火縄銃で朝鮮軍を圧倒し、援軍の中国の明王朝の派遣軍も追いかえしたのだが、火薬の供給に難があった。一方、慶長の役では明王朝の派遣軍の火薬の使用量に圧倒されることになった。秀吉の死去によって日本軍が撤退する時、加賀前田藩は当時の朝鮮人を大量に帯同して引き揚げたのだが、その時に硝石の製造技術者も連れてきた。
加賀藩の硝石製造について奥村正二は著書『火縄銃から黒船まで』の中で詳述している。私は奥村正二の記述に導かれて金沢を旅した。当時の金沢には、藩士の住宅街が見られた。その中には、朝鮮人を家祖とする家ものこっていた。感動した思い出がある。

そこから加賀藩の歴史を調べるに至った。第一級の文献は日置謙編纂の『加能郷土辞彙』であった。火薬について、以下のような記述があった。
「ヒヤカタゴヨウ(火矢方御用)
前田利常の代、寛永15年小川七郎左 衛門が父久次の遺跡を襲ぎ、高麗火 矢打御用願の通り命じられた。」
ここに出てくる小川七郎左衛門の尊父、久次は朝鮮の役から伴われてきたと、記載されていた。さらに、火矢方細工人の存在も記載されており、奥村正二の記述通りに江戸三百年間、加賀藩が日本の火薬庫であったことを理解させた。
このことを金達寿へ報告したが取り合ってくれなかった。だが安宇植は私の知っていることに関心を抱き『第三文明』誌の編集者を紹介してくれる。そこから朝鮮文化の日本への波及について『第三文明』誌に連載を始めた。       *
その連載途中で金達寿は、『第三文明』誌の連載を辞めて、『季刊三千里』誌で行うことを提案してくる。提案というよりも命令に近かった。後に安宇植から、「金達寿の下を離れることが遅かった」と忠告されたが、当時の師弟の関係は私を縛っていた。
金達寿が当初取り合わなかった心象風景は、のちに『朝鮮問題事典』(大蔵財務協会、1950年9月刊)の次の箇所を読み、理解することができた。
「朝鮮の人達は日本に合併されたあ の空白の間にも、自分達の国が、日 本の文化の母であるという自尊心だ けは失っていなかった。」(『朝鮮 問題事典』79頁)
金達寿は、文化の母とは異なる視点、天皇制の成り立ちという点から、日本を見ていたのだった。


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