今年、ユネスコの世界文化遺産に韓国南部の古墳群が登録された。古代に倭と最も密接な関係があった地だけに嬉しい話だ。
世界文化遺産となったのは原三国時代の弁韓時代に続く加耶時代に造られた7カ所の古墳群。
◎慶尚北道の高霊池山洞古墳群。
◎慶尚南道の金海大成洞古墳群、咸安未伊山古墳群、昌寧校洞・松峴古墳群、固城松鶴洞古墳群、陜川玉田古墳群。
◎全羅北道の南原酉谷里・斗洛里古墳群。
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まさに任那日本府が置かれていたとされる地域の古墳群である。
私も高霊の古墳群を見学したことがある。写真でわかるが、加耶の円墳は山の尾根や傾斜地に密集分布し、控え目な大きさで良く整備されていて美しい。日本の宮内庁管理の巨大古墳はまったく手が入れられず、木々が生い茂っているのとは対照的だ。
それはともかく、韓半島の古代の墓は高句麗の積石塚・百済の木棺墓・新羅の積石木槨墓・加耶の竪穴式石槨墓に加え、全羅南道に栄山江文化というものがあり、そこは甕棺墓とそれぞれアイデンティティーの異なる墓制があった。
支配者階級と思われる古墳の副葬品にも違いがある。新羅は黄金と西アジアに起源を持つガラス器。百済は中国の王朝文化の影響を受けた陶磁器。高句麗はなんといっても見事な壁画だ。
加耶は鉄の産地であっただけに甲冑や馬具など金属製品が多いが、最も大きな特徴は”人”である。被葬者以外の人間が埋葬されている例が多いという。
前述した王墓級と考えられる高霊の池山洞44号墓では20体もの殉葬者が発見され、他でも殉葬墓が見つかっているが、自ら命を絶ったのか、骨に痕跡が残らない方法によったのか、埋葬状態から生き埋めではなかったらしい。
日本の古墳では、明らかな殉葬の発見がない。埴輪をその代わりにしたという伝承がある。卑弥呼の墓という説もある九州・糸島市の平原弥生遺跡を発掘した古代史家の原田大六氏は、痕跡を見つけ「殉葬があったことを認めてもいいのではないか」と書いている。
古代残酷物語風になったが、復元された平原遺跡の封土の雰囲気はよく似ている。原三国時代に半島南部にあった支石墓も北九州各地に多い。甕棺墓も同様で吉野ケ里遺跡でも大量に発掘されている。これらは半東南部からやってきた人やその子孫の墓であろう。
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魏書三国志の韓の条に”南は倭と境を接す”という記述がある。陸で接していると読み解ける。韓半島の南端に倭人が多く住んでいたことは定説だ。国境などなく半島南部の人と列島の人は自由に行き来した時代であった。
「5世紀までは朝鮮半島南部と日本はほぼ同一の文化を共有していた。そして言語もほぼ共通であった」(武光誠氏)。相次ぐ動乱や飢饉から逃れたり、交易のために多くの人が列島に渡って来たことは墓の共通点からわかる。
加耶は小さな村々の複合体で10国、12国、あるいは20数国もあったと言われる小国家群。その中でも金海の金官加耶、咸安の安羅加耶、高霊の大加耶、固城の小加耶の4国が有力であった(主にその地域の古墳群が世界文化遺産となっている)。加耶の祖、首露王の出身地であった金官加耶は「任那加耶」という名でもあった。
任那とは「君主の国」という意味らしい。新羅も国内的には鶏林という国号があった。二つの国号があったことを例えて言えば、日本に対外的な”ジャパン”、国内で使う”日本”というものがあるような感じだ。倭は任那を切り取り、広く加耶全体を任那と呼んだ。
倭が特に親しかったのが金官国と隣の安羅国。日本書紀には「安羅日本府」の記載があり、任那日本府が置かれた地と推測された。このため日韓併合の直後に朝鮮総督府が”任那日本府を証明せよ”と、考古学者を総動員して咸安郡の遺跡で大発掘をやった。遺物は沢山出たが、それを証明する物は何も出ず報告書2枚で終わったという逸話が残る。
識字集団として渡来し財政などの知的作業や軍事で活躍した漢氏は、その安羅加耶出身であることが確実視されている。漢氏と並ぶ渡来人集団、秦氏の出自には諸説あるが、金官加耶というのが有力。農業集団として渡来、山城(京都)を築いたことは有名だが、全国最多で2万社もある稲荷神社の元締め、伏見稲荷は秦氏の氏社だ。
こうやって見てくると、古代の九州と半島南部は同じ民族で深く結ばれていたことがよくわかる。ユネスコの認定理由は『加耶古墳群は周辺国と自律的かつ水平的な独特な関係を維持し、東アジアの古代文明の多様性を示す重要な証拠になる』としている。抽象的だが、独立した国の文化として評価したということだ。周辺国に倭も含まれると考えていいだろう。