私が出会った在日1世~金達寿の歩いた道⑦ 安部柱司

金達寿を師として仰がなくなった背景
日付: 2023年12月05日 12時58分

 社会主義への疑問を抱くきっかけは、公害処理の研究者として水の問題に取り組んでからである。
それは、日本の中の朝鮮文化を探す旅で、神社に参拝すると必ず水を大切にする風土も合わせて知らされたことが契機となっている。金達寿の日本の神社・仏閣を訪れて朝鮮との関わりを調べる旅は、日本人の生活と水の関わりを知る旅でもあった。
金達寿を師として仰がなくなった背景にも、この水の問題があった。大陸というか韓半島からの水を利用する一節については、金達寿の小説『行基』に記述がある。『行基』は、一面では私が国会図書館に通った成果が詰まった作品であった。

韓半島からの水の利用に関しては、行基による土木技術以外にも水車の伝搬があった。金達寿は、中国大陸で発達していた水車を朝鮮から僧・曇徴が伝えてきたという『日本書紀』の記述を援用して説いていた。
しかし、私は有田で始まる磁器の製造を支えた水車の技術が『日本書紀』に描かれたそれとは違うという立場を貫いていた。

確かに、有田の泉山で陶石を発見したことが磁器製造の始まりとされている。だが、問題は陶石を見つけたところで直ちに磁器が焼けるわけではないという点だ。泉山陶石の発見者の李三平が日本における磁器製造の祖とされているのは、陶石を砕く水車の技術を持っていたからである。当時の李三平の水車を見るために、金達寿と大分県に足を運んだ。
大分県の日田と中津の間の山間部の僻村に小鹿田集落がある。小鹿田集落では陶土になる前の粗土を唐臼で搗いている。唐臼とは韓臼の日本的表現である。大体が日本で唐(から)は韓(から)である。
小鹿田焼は、その独特な模様でかなり知られている。小鹿田の唐臼が韓臼であり、秀吉の時代に渡って来た姿を一番残している集落でもある。水車の伝来を曇徴を起点に説くか、李三平から説くかという問題に直面するにあたって、近代日本を揺り動かした「水車」の場合となれば、李三平から説き起こさざるを得なかった。
日本の陶磁器製造の現場には必ず李三平が有田で陶石を砕いた水車があるというほどだった。水車があって日本の陶磁器の製造技術は一新される。従来の焼物の製造は土を活用するだけにとどまっていた。それが陶石を砕いた焼物が作れるようになったのである。

李三平だけでなく、地方誌史に見られる秀吉の朝鮮出兵、いわゆる文禄・慶長の役についての記述を読み進めると、西南の雄藩は当時を生きた多くの朝鮮人を「連行」してきた事実が鮮明となる。連行だけでなく「同行」という側面もあったとみられるのは、雄藩の体制を支える幹部に多くの朝鮮人が就いていたためである。
徳川家康が朝鮮王朝と友好関係を結ぶために、その友好の印として連行した朝鮮人を郷里に帰したというが、良くて中人、大体が常人の階層である。大多数が士人として日本に留まった。
その士人は明治では士族として維新体制で重用されていく。例えば、日本銀行の幹部を調べれば直ぐに分かるが、大正の時代に入っても朝鮮名を見ることが出来る。
私の勤めていた通産省工業技術院東京工業試験所の知人に早稲田大学卒の洪がいた。彼の自慢は佐賀藩の洪氏一族が早稲田大学を創建したことであった。早稲田大学が植民地時代に朝鮮人から愛された一因であろうか。韓国のサムスン財閥は早稲田大学卒業生が築き上げ、後継者を早稲田大学へと留学させている。
明治維新後の新体制を支える三菱から早稲田大学まで、慶長の役で「同行」してきた朝鮮人に由来する文化と技術を目撃した私は、金達寿の訪韓後にその下を離れる。


閉じる