日本に親北勢力が形成されたのは敗戦直後からだった。
最初は、後に「日朝協会」に発展する共産党員たちが中心となった勢力が勢力化・組織化を主導した。日本共産党は敗戦後、米占領下で復活するや、急速に膨張する在日朝鮮人の共産主義者たちを日本共産党員にした。日本共産党が在日朝鮮人の共産党員たちを指導するのは「一国一党主義」が原則である共産党の伝統から自然なことでもあった。
ところが、在日朝鮮人たちが日本国籍から除外され、韓徳銖などが早くから平壌と直接連絡し始め、在日朝鮮人の共産主義者たちに対する「指導」問題が日本共産党と平壌の間に緊張と葛藤を招き始めた。
6・25戦争中に北韓を支持した在日朝鮮人たちは、1955年5月、朝鮮労働党の日本支部(朝総連)が発足し、日本共産党の指導から抜け出ることになった。「朝総連」を率いる核心根幹は「学習組」と呼ばれる朝鮮労働党党員たちだった。これは異例の事態だった。
当時、敗戦国の立場でモスクワと北京の指導と支援を受けるしかなかった日本共産党としては、戦闘的な在日朝鮮人の共産主義者たちが平壌の指導を受けることになったことを拒否できなかったと思われる。しかし、東西冷戦が本格化し始めた歴史的状況で、日本共産党員をはじめとする左翼は、共産陣営の一員として平壌側(金日成)を助け「北送工作」に協力するなど韓国を敵対視する。
日本社会は、「抗日武装闘争」を唯一、かつ最大の政治的資産として掲げる金日成と毛沢東に扇動され、独立運動家である李承晩大統領を反日主義者として敵対、反感を深めていった。日本を解放させねばならない対象とみなす共産側の狡猾なプロパガンダにより、反韓感情、反韓イデオロギーがしっかりと作られた。
日本共産党と平壌側の葛藤は、選挙をしなければならない日共が武装革命闘争路線を公言できなくなりながら表面化し始めた。つまり、金日成の指示を受ける朝鮮労働党の日本支部と日本共産党は不便な関係になった。
日本共産党が平壌側と決別を宣言することになるのは、金日成の個人崇拝・偶像化や特に金日成が68年1月、朴正煕大統領を暗殺するための特殊部隊を送りながら韓半島をゲリラ戦場にする第2の南侵を目論みながら、だった。
日本共産党は、平壌側の暴力革命闘争路線を「科学的社会主義」とは無関係の野蛮的な暴力路線と非難した。日本共産党と平壌側の間は回復できない対立関係となった。
日本共産党機関誌の赤旗の平壌特派員が北韓から追放された(73年4月)。ところが、金日成は日共との摩擦が拡大し、日本内で日共に代わって朝鮮労働党の日本支部を庇護してくれる勢力をすでに見つけた。すぐに連帯対象となったのは、日本共産党よりも左派(極左)の社会党左派が、日本共産党に代わり平壌側の前衛隊となった。
「日朝協会」をはじめ、平壌側と連携、連帯してきた組織も分裂した。日本社会党は朝鮮労働党の忠実な代理人、朝鮮労働党日本支部(朝総連)の庇護勢力となった。労働組合をはじめ、学界、文化芸術分野などあらゆる分野で社会党と日本共産党は平壌を間に置いて競争することになった。
平壌側の代理人は共産党から社会党(特に左派)に置き換えられた。日本社会党と朝鮮労働党は友党(兄弟党)関係に発展した。日本政府も社会党と朝鮮労働党の関係を適切に管理、利用し始めた。
(つづく)