ソ連軍の占領のもとで既に兵営国家となった平壌だが、金日成が4つの革命戦争と53カ国に軍事とテロを輸出していたときに、通常国家・工業国家として変貌していた韓国の輸出対象国は1961年の25カ国から163カ国に拡大(79年)していた。
南・北韓の対決は合理性と科学、開放化と無謀、野蛮と閉鎖性の対決だった。
韓国が73年、森林緑化基本計画を樹立し国土の緑化に邁進していたとき、金日成は穀物生産を増やすために北韓全域の山坂の木を切り、段々畑を作る闘争を大々的に展開していた。
金日成は数年以内に20万町歩を作るよう指示した。毛沢東が人民公社で中国を台無しにしたのを見ながらも、金日成は同じように愚かなことをした。
韓国は20世紀に植林事業に最も成功した国家となり、金氏王朝の北韓は国土を荒廃させ、慢性的な食糧不足に苦しむ国家となった。しかし、世界は、朴正煕大統領と韓国を独裁国家と罵倒した。東西冷戦の最前線で共産全体主義から自由民主体制を守る朴正煕大統領を米、日、西欧の言論と政治家たちが韓国を攻撃した。特に、日本社会は冷戦に無知だった。知ろうともしなかった。
日本社会、日本メディアは朝鮮労働党日本支部の工作に操られ、朴正熙を攻撃した。
朴正煕大統領はもちろん、朴正煕大統領を中心とした体制、つまり朴大統領を支持し近代化革命・精神革命運動に共に邁進した勢力、要するにエリート官僚たちと企業人たちも非難を受けた。
反朴正煕、反韓の攻撃に出た数多くの外国人の中でも韓国を最も苦しめたのは日本だった。
朝鮮労働党は日本支部(朝総連)を通じて広範な親北政治勢力を作った。労働党日本支部は、日本の労組、教育、市民団体、経済界などの左翼、革新界はもちろん、社会党、自民党など政界にも深く浸透した。平壌側は「招請外交」を通じて親北人脈を養成、管理した。このような外国人の招請外交、接待には当然、軍事とテロ輸出に要するほどの膨大な資金が費やされた。
金日成は海外の親北人事、親北革命組織を管理するため、チュチェ(主体)思想の輸出にも熱心になった。金日成主義研究所も各国に作られた。
チュチェ思想研究所は、第三世界はもちろん、西欧の先進諸国にも結成された。78年4月9日、日本の東京に「チュチェ思想国際研究所」が作られた。世界的な主体思想研究普及活動の拠点が設けられ、平壤側は「世界自主化偉業実現」を担当する主体的な力量を強化していくことができるようになったと記録している。
チュチェ思想国際研究所が所在する日本は、金日成とチュチェ思想を研究する組織が全国的に、また職能別に組織された。彼らは平壌側から貴重な存在として扱われた。金正日は「チュチェ思想は人民大衆の自主偉業、社会主義偉業遂行の全ての歴史的時代を代表する百科全書的な革命思想であり、人類の未来を導く偉大な思想」と主張した。
チュチェ思想がどのように国際社会の関心と反響を得ているかを報道するのが、70年代半ばから北韓媒体の重要な報道テーマとなった。日本の大学教授や知識人などが北韓を訪問、金日成・金正日に会えば、重要な事件、ニュースとして報道した。これは北韓住民たちを洗脳するためのものだ。
日本の左翼、革新界の親北人士たちは、彼らが北韓住民に金日成首領の偉大さを宣伝する道具となっていたことを自覚していたのだろうか。 (つづく)