北韓側は金融債権に関して、フランスの銀行を幹事銀行として、西ドイツや英国の4つの銀行に対する負債約1億5400万ドルの支払いを、1984年4月まで21回にわたって償還することに合意した。利息の支払いについては、金融債権と輸出信用に関係なく3回にわたって支払うことに合意した。
北韓側のスウェーデンへの債務返済の延期は、対北貿易中断事態へと拡大したが、76年1月、スウェーデンと北韓間の協定によって対スウェーデン債務額4000万ドルの長期借款に対し2年間、償還期間を延長した。
だが、北韓側が76年、スウェーデン側に返済することとした短期債務額約1200万ドルのうち、430万ドルだけを支払い、770万ドルを償還しなかったため、スウェーデン政府は、北韓に対する支払保証を中止、スウェーデン商社の対北延べ払い輸出は事実上、中断した。
スイス、イタリア、オランダ、シンガポールに対しても76年まで延滞し返済されなかった。西欧側は77年から何度も返済交渉をしたが、北韓側は債務履行の義務を履行せず、債務履行の条件として新規借款の提供と償還条件の緩和を要求した。
西欧の銀行債権団は87年7月、北韓側との交渉が決裂した後、北韓を債務不履行国と宣言した。日本と西欧の債権団は、北韓側と債務返済問題をめぐって何度も交渉したが、成果はなかった。結果的に、北韓は80年半ば以降、債務償還能力を喪失、元金はもちろん利子も支払えない支払放棄状態に達した。
南北間の経済力の格差は70年代に入り急速に拡大した。既述した通り、韓国の安保環境は最悪だった。
ニクソン・ドクトリンの後、朴正煕大統領は72年、維新憲法体制を敷かねばならなかった。パリ平和協定締結(73年)で南ベトナムの滅亡は時間の問題となり、75年4月、サイゴンが陥落した。金日成は韓半島からも米国を追い出せると考えて無謀で大胆な攻勢に出た。
朴正煕大統領に対する3番目の暗殺試図(74年8月15日)で陸英修女史が死亡した。休戦線では南侵トンネルが発見された(74年11月5日)。休戦線の地下を侵犯した南侵トンネルがさらに次々と発見された(75年3月19日、78年10月17日)。
金日成は米軍の対応を試した。76年8月18日、板門店で観測視界の確保作業を指揮していた米国将校2人を北韓軍が斧で殺害した。北側の朴正煕大統領殺害試図の際は、韓国軍の反撃を抑えてきた米国が、自国軍将校が殺害されるや戦争を覚悟した対応に出た。事態は平壌側の遺憾表明(謝罪)と後退をもって収拾された。
国家の運命は指導者の選択とビジョンによって決まる。朴正煕大統領は同盟と衝突、牽制や圧迫を受けながらも国民と国家に献身した。
金日成は共産主義革命輸出のために人民を犠牲にした。第3世界への軍事支援、テロと個人崇拝の独裁輸出の過程で、どれほどの多くの犠牲者を出したかはほとんど知られていない。金日成が貿易取引の代金も支払うことができず、第3世界に対するテロと軍事支援に力を注いでいたとき、朴正煕大統領は米国の絶え間ない牽制に苦しみながら自主国防と輸出に邁進した。
朴正煕大統領は「戦いながら建設しよう」と国民を率いて、輸出100億ドルを達成(77年12月22日記念式)し、1人当たりの国民所得も1000ドルを突破した。
(つづく)