ドラマと文学で探る韓国⑨ 若者は日本統治時代をどうみるか③ 青嶋昌子

ドラマ『九尾狐伝1938』×小説『金講師とT教授』
日付: 2023年10月31日 13時12分

 早いもので、今年も残すところあと2カ月となった。韓国ドラマの編成は下半期に入り、なぜか日本統治時代を背景に描かれたものが増えている。ネットフリックスで配信中のキム・ナムギル主演『剣の詩』しかり、同じく近日中に配信予定の『京城クリーチャー』は、『梨泰院クラス』のパク・ソジュン主演である。
ちなみに、どちらも制作にはスタジオドラゴンが関わっている。『九尾狐伝1938』の好反応が後押しとなったのか、あるいは本連載の第1回で言及した通り、光復節をよく知らない若者たちが増えていることへの、危機感の表れだろうか。
その一方、日本統治時代のドラマや映画が制作される場合、中途半端な描き方をすれば、視聴者や観客の反発は大きい。下手をすると、映像や演技のクオリティーが高いにも関わらず、「描かれ方」によって大きな批判を浴びることにもなるのだ。
もっともこれは韓国に限ったことではない。日本でも大河ドラマなど、歴史をモチーフにしたドラマの描き方に批判が集中するのは、よくあることだ。人々のその歴史へのイメージと、こうであったならという願望、また新たに掘り起こされる真相の存在も無視できないのだ。

こうした中で作られた『九尾狐伝1938』が受け入れられたのは、日本統治時代を背景としてはいるものの、それを主題とはせず、兄弟や同志の愛と絆をアクション大作として描いた点があげられる。
この描き方は、日本で配信初日にランキング6位を記録した『剣の詩』にも当てはまるだろう。主人公の愛と絆を、アクションで見せるという手法は、背景にあるものをより本物らしく見せることにも一役買っている。複雑で困難な時代だからこそ、愛と絆が深まるからである。これによって、クオリティーと歴史認識の間にある誤謬を解消しているといえよう。

小説『金講師とT教授』の主人公、金講師は苦悩や矛盾を抱えながらも現実に妥協することで、さらなる不安を胸の中にくすぶらせていく。T教授のような世渡り術を軽蔑しつつも尊敬し、指導を熱望する純粋な日本人学生たちを退ける。そしてそんな自分を嫌悪するという、堂々巡りなのである。
平野啓一郎は著作『私とは何か』で、たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」と語っている。
金講師のような苦悩を抱えていることこそ、人間の姿なのである。追い詰められ、世話になったH課長をいやいや訪ねる金講師の足取りは重い。やってきた金講師をにらみつけたH課長は開口一番、「何しに来たんだ」とどなりつける。
ついに来るものが来たと腹をくくる金講師。だが、いよいよこうなってみると、重荷を下ろしたようで、案外平気だった。自分を苦しめていたものはこれしきのことだったのかと、すっかり拍子抜けしてしまうのだ。

日本統治時代を一言で語ることはできない。決定版のような一作を提示することもできようはずがない。ドラマというエンターテインメントとして描くときも、すべての人に受け入れられるような描き方はできないのだ。
だがその一作一作、それぞれが、誰かの胸に訴えかけるものであるなら、それは成功したといえるのではないだろうか。
九尾狐が日本の妖怪を倒し、愛する者のそばに帰るように、金講師がようやく重荷を下ろしたように、最後はやはり自分自身に戻っていくことになる。


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