いま麹町から 24 髙木健一

韓国国民勲章受章
日付: 2023年10月24日 12時44分

 このコラムの私の著者紹介欄に「89年韓国国民勲章牡丹章受章」と載っています。そのいきさつを説明したいと思います。

すでに述べてきたように私は、1975年からサハリン残留韓国人帰還請求裁判に関わってきましたが、85年頃にはソ連の態度も軟化し、サハリンからの一時帰国のための出国も容易になりました。87年の議員懇によるサハリン及びモスクワ訪問を契機として、88年には私名義の日本入国の招待状による来日者が急増したのです。
90年には日韓両政府の共同事業としてサハリンからソウルへのチャーター便が運航されるようになりましたが、それまでは日本に来訪もしくは日本を通過して韓国を訪問するルートが必要だったのです。88年から90年までの2年半の間、私が日本に招待したサハリン残留韓国人の数は1000人に達しました。従って韓国からの国民勲章受章時には、私の招待者はまだ400人程度だったのです。勲章をもらうに至ったのは、実はサハリン残留問題ではなく、在韓被爆者問題が関係していました。
これも既に述べたのですが、韓国の原爆被害者協会(辛泳洙会長)から私に働きかけがあり、東京に市民による支援する会を創ってほしいと要望がありました。私は東京での運動の中心的な存在である中島竜美さんらと相談し、88年5月20日に「在韓被爆者問題市民会議」を設立し、その代表となったのです。
さらに日弁連の中に設置された「在韓被爆者問題調査研究委員会」の委員長にもなりました。この頃の在韓被爆者の最大のテーマは、渡日治療の延長問題でした。
渡日治療とは、韓国在住の被爆者が治療目的で渡日し、広島・長崎の原爆病院に入院し、治療を受ける制度で80年に始まったものです。この渡日治療で349人の韓国の被爆者が治療を受け、効果的で評判もよかったのですが、韓国政府としては日本の宣伝に使われていると思われたようで、85年頃から廃止を言い出しました。私は何とか継続させたいと思い、日韓両政府と接触しました。私は韓国の保険社会部の医政局長から渡日のための渡航費用を日本政府が負担すれば反対する理由がないという言質を取り、日本に帰り、外務省を説得して渡航費用は日本政府が負担するとの方針を引き出したのです。それで渡日治療が継続すると思ったのですが、韓国政府は今後は韓国で治療を行うので、渡日治療は終わりだと決定したのです。私は、それは医政局長が虚偽を述べたことになると朝日新聞の論壇に投稿したのです。

ところがこれを見た韓国の情報機関である安企部において、髙木は反韓国人士ではないかと議論になったとの情報を聞きました。当時はまだ全斗煥大統領の軍事政権時代でしたので、入国禁止にでもなれば大変です。そこで私は知り合いのソウル弁護士会長に相談しました。その会長さんは私のサハリン残留韓国人問題の貢献も知っており、入国禁止どころか髙木さんには勲章こそをあげるべきだと大学後輩の法務部の担当課長に話をし、その課長が安企部を説得し、前例のない勲章授与に至ったのです。
安企部では、こんな高いレベルの勲章をあげることに抵抗をしたということです。韓国での牡丹章は、日本の勲二等に当たり、ソウル大学学長が70歳になったとき受けるレベルだそうです。これを当時45歳の外国人で、しかも日本人に初めて授与するのですから政府としても大きな決断だったと思います。
これにより、私はその後も韓国人の人権のため活動を続けることができたのです。なお、勲章受章の翌年には私は日弁連の特別功労賞という賞ももらいました。日弁連史上2人目ということで名誉なことでした。

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髙木健一(たかぎ けんいち)
1944年生まれ。東京大学法学部卒、弁護士。長年サハリン残留韓国人問題、慰安婦問題、在外被爆者問題など戦後補償問題に取り組む。89年韓国国民勲章牡丹章受章。著書『今なぜ戦後補償か』(講談社現代新書)ほか。


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