私が出会った在日1世~金達寿の歩いた道④ 安部柱司

金石範・安宇植との決別にひそむ「思想的」問題
日付: 2023年10月17日 13時05分

 訪韓した金達寿は私を呼び、如何に韓国が発展しているか、語った。朗らかな表情であった。それは私の金達寿との最後の対面になった。
1981年の金達寿の訪韓後の報告より以後、私は二度と金達寿の顔を見ることはなかった。それは、金石範が『季刊三千里』誌の編集人グループから離れることと軌を一にしていた。そのことにより、私の金達寿との決別は「思想的」問題を含んでいると捉えられた。
金達寿との決別を、安宇植は「5年遅かった」と慰めてくれた。金達寿と決別してから、安宇植の案内で三度、韓国を訪れた。そのお陰で私は韓国を一周することができた。韓国の風土を知る貴重な体験ともなった。
今でも、80年代前半に安宇植から受けた恩義は忘れられない。朝鮮総督府の刊行物を読む助けとなっている。感謝の一言である。まだ東海岸は鉄条網が張り巡らされていた時代である。

そのときの旅行で、『朝鮮』(岩波新書)の間違いに多く気付かされた。金達寿が現実の韓国を知らずに『朝鮮』を著述していたことを確認した。
『朝鮮』の金日成によるパルチザン闘争が韓国人の希望の光だったかのような記述は、南朝鮮労働党を形成する半島南部の人々の抵抗が描かれていないという弱みを感じさせた。『朝鮮』の弱点は、他にも日本列島と韓半島との関わりは、古代と現代に限られたものではない、ということだ。
金達寿は『日本の中の朝鮮文化』を書いている。それも古代に偏っている著作だった。江戸時代初期、朝鮮王朝時代の文化が日本文化に与えた影響が、今の日本文化の基層を構成していると安宇植は説き、私に書く雑誌まで紹介してくれた。

その安宇植を私に紹介してくれたのは金石範だった。金達寿と朝鮮文化の旅の供をしていた時期とも重なっている。金達寿が要望する古代だけではなく、私は随行して、朝鮮王朝時代の文化を調べる作業を行った。
安宇植はいち早く朝鮮大学校の教員を辞めて韓国へ行った。少なくとも、金達寿たちの訪韓よりも10年は早かった。そのことから在日知識人の左派グループから受けた非難中傷にはきついものがあっただろう。
安宇植の案内で韓国旅行中に、その非難中傷が見当外れだったと実感する。あの時代、70年代の日本では、左派知識人の間で、岩波書店刊行の雑誌『世界』や『朝日新聞』紙の報道などで、韓国の朴正熙政権に対する批判が日常的に行われていた。私もその影響をかなり受けた。
だが、私は安宇植の訪韓批判を一切行わなかった。金達寿は、「あいつは暗い男だ」と、私に付き合うことを牽制した。それでも安宇植には私の知的好奇心を引き付けるものがあり、交流は80年代まで維持されていく。

安宇植は、私が金達寿と決別すると、直ちに韓国旅行へ誘った。それはまた、私と金石範との関わりを絶つことにもなる。
おそらく私が済州島に深い興味を持ち、金石範の畏友である高淳日の発行する『くじゃく亭通信』誌に記事を書いていたから、金達寿の訪韓後に決裂したということで、二人は連携していると誤解したのであろう。
その高淳日の発行する『くじゃく亭通信』誌から、既に私は手を引いていた。それは現代コリア研究所の佐藤勝巳所長から「安部は北朝鮮の対日工作を手伝っているのかね?」と、脅しをかけられ、驚いて逃げたのであった。北朝鮮の工作員だと指摘されると、通産省の職員として不味い事態になると判断したのである。


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