古代史万華鏡クラブ~韓日古代史の謎を解く

任那日本府はあったのか 第4回武器の古代史
日付: 2023年10月10日 13時10分

 任那日本府に関する通説をザッと見てみるとこうなる。
・369年、倭国軍が百済と結 び新羅を破り任那日本府設置。
・391年、任那を起点に倭国 軍が百済、新羅に出兵。
・400年、新羅救援の高句麗の歩騎5万人と倭国軍が戦う。
・512年、大伴金村が百済に 任那四県を割譲。
・562年、新羅の攻撃で任那 日本府滅亡。

ヤマト政権が4世紀から200年もの間、韓半島南部を支配していたという。読者の皆様には耳タコのフレーズだと思うが、早莽の邪馬台国の時代からたった100年ほどで強力な統一政権が生まれ、韓半島に進出することなどできただろうか。
現代では100年で世の中は激変する。ライト兄弟がヨタヨタ空を飛んでから半世紀でジェット機がマッハ近くで飛ぶようになる。
唐突だが(今、昭和政治史を読んでいるので)、昭和の妖怪政治家、岸信介は井伊直弼の桜田門外の変のたった36年後に生まれていることに驚く。3世紀から4世紀にかけての100年もそのように時が移ったのだろうか……。余談はともかく、今回は1700年もの昔、短期間で半島に植民地を作ったという倭王権にどれほどの武力があったのかを研究してみた。

4世紀以前の弥生時代の武器はなんだったのだろう。攻撃武器としては弓と投弾。要するに石合戦であるが、紐や棒を補助に使えば射程距離は100メートルを超え強力な武器になった。
弓についていえば石鏃や骨鏃が主流。登呂遺跡で発掘された弥生時代の弓はイヌガヤの丸木に黒漆で塗装、筋にはカバ桜の皮を巻いて補強した立派なもので、極めて頑丈で江戸時代の弓に見劣りしない物だったという。
衝撃武器としては剣や刀、矛や槍、斧などだが金属器はきわめて貴重で石製品が主流だった。打撃用の短い石剣がその代表だ。柔らかい青銅は早々に祭祀用の鏡や剣、矛用になる。
一方、列島で製鉄が始まるのはようやく5~6世紀といわれ、それまでは韓半島から鉄〓といわれる素材を入手して加工するか製品を輸入したのだろう。韓半島に進出したという4世紀になっても鉄は依然貴重品であったが、多種・多量になる。弥生墓では一口だった剣が前方後円墳では三口、四口と多量化するし、全長60センチを越える剣が稀であったのが70~90センチが普通になる。しかしそれらが発掘される古墳は有力者の墓であり、権力者自慢の威信財であったろう。一般戦士が持っていたとは限らない。古墳から立派な甲冑も発掘されるが同様だ。
4世紀には鉄鏃も鎬を持ち大型化。定番の三角形のほか柳葉形やのみ頭形などバリエーションを増やす。しかし貴重な鉄鏃を慎重に撃つより、威力は劣るが石鏃をバンバン撃ちまくる方が、古代の陣取り合戦的戦いには効果的ではなかっただろうか。4世紀時点では列島には馬もおらず武器はそう変わっていなかったのではないかと思う。

時代は下って7世紀、白村江の戦いで大敗した倭国軍。兵隊は豪族の寄せ集めで連携作戦ができなかったことが惨敗の要因といわれ、その反省から天武天皇は「政の要は軍事なり」と律令制による国軍を組織する。一戸の3人につき1人が兵役につく法律であったが、今に残る兵士・衛士・防人に指示した『令義解』という軍防令を見て驚いた。糒六斗と塩二升を自分で用意せねばならぬと書かれている。これは戦闘時の30日分の携行食糧となるらしい。
この他、さらに過酷な指令がある。『兵士、人毎に弓一張、弓弦袋一口、副弦二条、征箭五十叟、太刀一口、刀子一枚、砥石一枚…』と細かく自分で用意すべき武器や武具、生活用具が指示されている。
矢は50本、刀は無論、すねあて、草鞋から水桶までリストにある。国の防備につくのに武器・装具を用意しなければならなかったのだ。それにしても50本の征箭(軍陣に用いる本格的な矢)をどう作ったのだろう。作り手による性能差もあっただろうし、50本を使い切ったらどうしたのか、補給はあったのだろうか? 心配になる。
4世紀ではなく7世紀の段階でもこの程度である。「政治は軍事なり」というにはケチくさい。手作り軍団はとりわけ強力な軍隊でもなさそうである。
”糒六斗”に思い当たる節がある。『三国史記』に新羅への倭人の進攻の話が頻繁に出てくるのであるが、どれも短期間で撤退している。携行食糧を30日分しか持っていなかったからだろうか。
ちなみに同時代の高句麗軍の戦い方は、木質の弓身に薄く削った動物の骨を膠で接着し、強い弾力性を持たせた反転弓を歩兵が放ち、敵がひるんだところを完全武装の騎馬隊が長い槍をかざして蹴散らす戦法である。強そうなのはどちらだと思いますか。

邪馬台国時代の武器は石を磨いて作った短い石剣が主流。写真の青銅や鉄の剣は威信財。首長クラスしか持てなかっただろう(佐賀県提供)


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