新解釈日本書記「続」応神 幻の大和朝廷 第15回

日付: 2023年10月03日 13時23分

 沸流百済系大和王朝以前は、出雲を宗主国とする新羅系山陰王朝が存在していて、大和にはその王朝の一勢力が盤踞していたに過ぎない。その新羅(伽耶)系勢力が、神武から開化までの王統として整理され、沸流百済系王朝に接合されたと考えられる。
それが、『記・紀』の記述となったもので、文字化されると、それがあたかも史実であるかのように錯覚され、後世になるにしたがい、史実として定着されてしまったのだ。文字の魔力というほかない。日本の歴史は、その魔力から逃れられずにいるといえる。それゆえ、摩訶不思議な事柄であっても、それを正当化する論述をあれこれ展開し、魑魅魍魎の世界をさらに拡散している。
葦原中国の位置やタカミムスビとアマホヒの人(神)格を徹底追究してみると、葦原中国は出雲、つまり現在、出雲といえば島根県の出雲を指すのだが、その出雲ではないということが明らかになった。
出雲の古い表記は伊豆毛で、その伊豆毛は伊都地(いとも)から来たものだということだ。それは、筑紫は糸島半島の糸で、怡土=伊覩=伊都のことを意味する。『日本書紀〈仲哀紀〉』に「天皇が五十迹手を褒めて伊蘇志といった。それで、当時の人たちが五十迹手の本土を伊蘇国と呼んだ。今伊覩国というのは、伊蘇の音が訛ったのである」という記事にあるように、伊都は伊蘇から変化した呼称で、磯、伊勢などにも転用したということだ。
その伊蘇は、伊西(いそ)に通じ、イタケル(五十猛)の五十(いそ)にも通じる。伊西国は、アマノヒボコ(天日槍)の故国と見る向きもあるのだが、伊西という地は、現在の慶尚北道の最南部、清道郡に属し、その西に高霊郡があるから、かつての大伽耶の境域に属していたと見られる。
タカミムスビは大伽耶の絶対権力者として創作され、タカミムスビの命令が実際にあったかどうかは定かでないが、アマホヒが赴いた地は筑紫出雲と考えられる。その地を領知していたオオナムチに取り入って、後継者に指名されるほどに、オオナムチの側近として抱え込まれたと思われる。
だが、百済系大和王朝が新羅系山陰王朝の簒奪をもくろみ、工作するようになると、筑紫出雲のオオナムチは島根出雲に退避したのだが、アマホヒは沸流百済の先鋒となって、出雲王朝を簒奪し、その功によって出雲国の領知者(国造)になり、出雲氏族の祖と仰がれるようになったのだろう。アマホヒ、あるいはアマホヒの子孫も筑紫出雲から島根出雲に移住したと考えられる。

400年前後に新たな百済系大和王朝が出現

葦原中国の平定に、タカミムスビ(高皇産霊)は、アマホヒ(天穂日)を派遣したが、失敗におわり、次にアマワカヒコ(天稚彦)を派遣したのだが、それもオオナムチの娘を妻にして、葦原中国の王になってしまった。つまり、失敗したのだ。


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