私が出会った在日1世~金達寿の歩いた道③ 安部柱司

『朝鮮』の果たした功罪「社史」読破で再検討
日付: 2023年09月20日 12時58分

 評論家の安宇植は『朝鮮』(岩波新書)には間違いが多いと述べていた。1970年代の私の知識では判らなかったが、90年代に入ると誤りの多くに気付いた。それだけ私の韓半島の歴史の勉強が進んだのである。
だが60年代の私は、岩波の知的権威上の存在として金達寿を信じた。『朝鮮』は、小倉駅前近くの金栄堂書店2階で買い求めた、岩波新書の一冊だった。

「1930年代に入ってからは、独立・革命のためのたたかいはいっそう熾烈なかたちでたたかわれはじめていた。金日成の抗日パルチザンがそれである」
「1934年には、さきにのべた日韓併合前後からの義兵の流れを汲む東満抗日遊撃隊、南満抗日遊撃隊等をはじめとする中国・東北一帯にちらばっていた抵抗軍を一つに統合して朝鮮人民革命軍がつくられ、金日成はそれの司令官となった」
「1936年には・・・祖国光復会を結成し、金日成はそれの会長となった」
「なかでもとくに有名なのは、ここにはでていない、1937年6月4日、朝鮮国内でおこなわれた普天堡の戦闘であった」
「いまや金日成将軍とそのパルチザンとは、全朝鮮人の希望の星となった」
以上は、前記『朝鮮』の136頁から140頁にて記述されている金日成に関わる表現である。

2010年代に入って、延辺朝鮮族自治州を構成する都市の教育委員会からパルチザン関連の資料の提供を申し入れられた。なぜ、東満地域史の研究者として知られていない私ごときに依頼が来るのだろうと不思議に思ったものだ。
1990年の前後に、王子製紙の社史をつぶさに読んで行くと、羅南駐屯の帝国19師団から廃棄予定の銃器の払い下げを受け、社員を武装させ、豆満江一帯の森林地帯から「匪賊」を一掃できたという記録を目にした。
その一文を見つけた時の驚きは、金達寿の『朝鮮』に記されていた金日成賛歌の記述を一掃する。
そして日本の北韓研究者の大半が、半島北部から満洲一帯に進出した企業の「社史」に無頓着であったことに気が付いた。
私が韓半島に関わる会社の「社史」を読み始めたのは、通産省職員としての仕事としてだった。90年9月に金丸信自民党副総裁が訪朝する。
有名な「金・金会談」、そして三党合意の声明が出る。

日本は「つぐない」をすると宣言する。その「つぐない」の中身、鉱工害に関わる調査の「社史類」を読破した。私は通産省傘下の研究機関で公害処理の研究に従事していた。再度、籠底から金達寿の『朝鮮』を取り出した。
そこから金達寿がぽつんと呟いた言葉を思い出した。それは宮本顕治が、1回目の訪朝で金日成に語ったという言葉であった。

「あなたのお名前と業績は、在日朝鮮人作家の金達寿に教わりました」
「日本人にあなたの業績を知らせたのは金達寿です」
金達寿は私に「金日成に宮本顕治が自分を紹介してくれた」と誇らしげに語っていた。それは宮本顕治が訪朝するに当たって金達寿の『朝鮮』を読んで行った、ということである。
金達寿は宮本顕治夫人の宮本百合子を取り巻く、後に法政大学の教授になる小原元などのグループの一員でもあった。あの時代の日本共産党は派閥抗争も激しかっただけに、金達寿が日共国際派に所属していたことも、宮本顕治をして金日成に金達寿を紹介させたものであろう。
宮本顕治は帰国後、金日成との会談内容を伝え、日共周辺で『朝鮮』の存在感を高めるのに一役を買った。


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