医療保険の施行は、福祉を通じて社会的葛藤を緩和するのに決定的に貢献した。医療給付を通じて韓国人の平均寿命は急速に伸びた。統計庁資料によると、韓国人の平均寿命は1960年度の男子52・7歳、女子57・7歳、70年に男子61・8歳、女子70・0歳、80年は男子62・3歳、女子70・5歳、90年は男子67・3歳、2000年は男72・3歳、女79・6歳に伸びる。
歴史を見ると、韓半島で生きた女性たちの地位を革命的に向上させたのは、大韓民国の建国後、独裁者として非難された李承晩大統領と朴正煕大統領であることが分かる。韓半島に共和制を建てた李承晩建国大統領は、女性にも男性と同様に投票権を与え、男女平等の理想を実現した。朴正煕大統領は、軍事革命直後に封建時代から続いてきた畜妾制度をなくした。妾を置いた公職者をすべて粛清した。そして人口政策で2人の子供を持つことを強行、娘たちも息子と同様に高等教育を受けることができる環境を作った。これにより教育で差別を受けなくなった女性たちが社会生活や就職などで眩しい活躍ができるようになる。これは当然、封建的価値と秩序の打破につながった。
李承晩大統領と朴正煕大統領は真の革命家だった。両大統領が独裁者として非難、攻撃を受けたのは、封建時代の秩序を徹底的に解体したからだ。李承晩大統領は彼自身が朝鮮王朝の末裔でありながら王政を廃止し、王室財産を没収し、農地改革で地主など封建時代の既得権層から根深い恨みを買うことになった。
軍事革命によって文弱な両班文化と伝統を否定された、両班秩序に根を持つ政治勢力は、軍事文化とその指導者に対して激しい反感を持つしかなかった。権力を分けあうことができなかった文民政治家たちは「維新体制」を通じて朴正煕大統領の執権が長くなるにつれて、「軍人政権」に対する抵抗を組織化する。特に野党は、朴正煕政権を掌握、統制するのに苦労していた米国を最大限利用した。
軍人時代から朴大統領を疑ってきた米国は、他の同盟国に対してもそうしたように、しばしば民族主義的自主路線を掲げる朴正煕大統領を牽制するため、朴大統領に対する反対者たちを支援した。朴大統領が特に辛かった点は、共産圏全体はもちろん、共産圏の政治工作の影響を受ける「自由世界」の知識人たち、メディアなどの攻撃の標的となったことだ。米・日をはじめ、西欧のメディアと「知識人」たちは、自分たちの基準に合わなければ、特に相手が「後進国」の指導者であるなら、容赦なく批判、罵倒するのが普通だった。
朴正煕大統領は国内外から独裁者という批判と抵抗が高まっていたが、大韓民国の未来を設計し基盤を固めるためには近代化革命が軌道に載るまで計画を揺らさず一貫性をもって推進せねばならないと確信していた。朴大統領は「私の墓に唾を吐け」と、自分のすべてを燃やしていた。19世紀以前に産業化を始めた先進国だけが可能だった重化学工業による輸出100億ドルを達成(1977年12月22日)した韓国は、1人当たり国民所得も1000ドルを突破しながら、もっと大きな跳躍のための準備に拍車をかけた。輸出対象国も61年の25カ国から朴大統領の時代が終わる79年には163カ国に増えた。
朴正煕大統領は、自分の時代がいくらも残っていないことを予感したのか、超人的能力を発揮していた。総合行政情報網を構成するため行政コンピュータ化10カ年計画を作り(1978年2月20日)、全国土の土壌精密調査も完了(1978年2月)した。 (つづく)