申鉉碻保社部長官は、朴大統領に「もう医療保険を導入するときがきました。南・北間の競争において優位に立ち、体制を安定させるためには、政府がこれ以上、医療問題を放置せず、積極的介入して医療保険を施行しなければなりません」と報告した。大統領は「今、われわれの財政状況からは、時期尚早という意見も多いのではありませんか」と反問した。
申長官は「医療保険は、経済発展とともに国民の生活と直結する問題です。安定的な経済成長のためにも国民の生活を適切に改善する必要があります。閣下! 楽器の絃は、あまり締めすぎても切れますが、緩すぎると音楽を演奏することはできません。経済と福祉の関係もそうです」と朴大統領を説得した。
朴大統領は熟考後、「一度、推進してみましょう」と承認した。経済関連の部署をはじめ、国会でも時期尚早という反対意見が多かったが、国務会議を通した。申長官は1976年9月13日、医療保険制度の導入を発表した。医療保険制度が77年7月1日から実施されると、政府に感謝の電話と手紙が殺到した。
元々、朴正煕大統領が軍事革命に出たのは、国民を貧困から解放するためだった。革命政府が邁進してきた経済開発の諸計画も、究極の目標は国民に良い福祉を提供することだった。朴大統領は「私は革命をしたため、後世に功過の評価が分かれるだろうが、申長官が医療保険を導入したのは、歴史に長く残る業績です」と申長官を褒め称えた。いずれにせよ、不十分な財政状態で医療保険を施行することにしたのはやはり革命的決断だった。
韓国は植民地から解放(45年)と6・25戦争(50年~53年)を経て、歴史上類例のない混乱を経験した。李承晩大統領によって戦後復旧が行われたとはいえ、革命政府の課題はあまりにも膨大だった。休戦後もインフラや経済的基盤が脆弱きわまりない状態で、出産率が急激に高まるや、爆発的な人口増加は、そのまま食糧、教育、住居、医療、就職などあらゆる分野で政策施行に大きな負担となった。
食糧をはじめ、あらゆる資源が不足していた政府としては、大々的な出産制限、つまり産児制限政策を展開し始めた。
当時は、世帯当たりの子供の数が少なくても5人から多ければ10人を超えるのが普通で、息子の中でも長男や勉強のできる息子だけが就学、進学できた。娘たちには高等教育を受けさせる余裕などなかった。事情がこうだったため、人口増加を抑えようとして政府が掲げたスローガンは、荒く露骨的だった。
「むやみに産めば乞食を免れない」(60年代)、「息子と娘を区別せず、2人だけ産んでよく育てよう」(70年代)。政府は出産を抑えるため避妊薬を供給し、堕胎まで勧めた。海外への移民も推奨した。
急速な経済成長はもちろん、医療保険の早期導入・施行自体も人口増加の抑制なしには難しいことだった。人口増加の抑制は80年代まで続いた。韓国の人口増加は60年に75・3万人(人口増加率3・01%)から、70年に64・2万人(2・21%)、80年に59.9万人(1・57%)、90年に41・6万人(0・99%)、2000年には34・9万人(0・84%)と急速に減少、逆に平均寿命は急速に増えた。
1960年頃、韓国と同じ人口規模だった世界の開発途上の国々のほとんどが韓国のように経済成長ができなかったのは、人口増加抑制に失敗したことも決定的理由の一つといえる。
(つづく)