【金聖大物語】白頭学院~人生の羅針盤~第1話

戦後の混乱期、両親と済州島へ
日付: 2023年08月15日 05時43分

 金聖大の名を語るにあたって思い出される固有名詞がある。「白頭学院建国学校」だ。最も長い歴史を持つ大阪の民族学校、白頭学院に新しい風をもたらした。リニューアルされた今日の白頭学院が存在するのは、同氏の辛苦の末の貢献が礎となっていることは明らかだ。「私の人生の羅針盤は白頭学院だ」という金聖大の話を始めよう。(ソウル=李民晧)

 金聖大の故郷は日本だ。在日韓国人の中でも生粋のオールドカマーだ。
父の故郷は済州島である。1930年、大阪で鍵工場を経営する伯父に呼ばれて海を渡った。生活は困窮を極め、その日暮らしがやっとの日々だった。吹けば飛ぶような工場であり、売上げも芳しくなかった。40年、大阪の狭い賃借住宅で新しい生命が生まれた。真っ暗な部屋に差し込む一筋の光のような存在、それこそが金聖大だった。
彼が生まれた頃の日本は日増しに不安定な状況となっていった。41年、日本はハワイ・真珠湾の米国太平洋艦隊基地を襲撃する。表向きは日本の完全勝利に見えたが、これは眠れる巨人を起こす挑発行為に過ぎなかった。米国が太平洋戦争に参戦する口実となったからだ。
44年からは戦時の総動員体制に突入した。朝鮮人を対象とした「国民徴用令」も発令された。日本全国の軍需工場や飛行場、建設現場に韓半島出身者があふれていた。強制労働、徴用の歴史だ。
戦争が長引くにつれ、日本の主要都市は灰燼と化していった。毎日のように降り注ぐ米軍の空襲は恐怖そのものだった。金聖大の住む大阪も例外ではなかった。45年1月3日に空襲が始まって以来、28回もの空襲を受けた。
その結果、大阪の4分の1が焦土化した。全焼した家屋31万戸、死傷者4万8600人いたるところが破壊され、人が命を落とすことは日常のものとなった。
45年8月、日本の降伏宣言で韓半島は解放された。在日同胞は歓声を上げた。しかし当時の日本は焼け野原となっており、衣食住すらままならない状態だった。アノミー状態に陥った日本。政府の機能は麻痺し、経済は底をついた。深刻な物資不足と、それに伴う爆発的なインフレ。失業率も高まる一方だった。
折しも伯父が鍵工場を廃業することになった。生活の糧が閉ざされてしまった金聖大一家は、やむを得ず帰国を決意することになる。46年、両親の手を握り済州島へと向かう。
「済州島で父に出来る仕事は何もありませんでした。釣りの術も知らず、鎌を持ったこともないため農業もできません。まさに死を待つばかり、といった状況でした」
その頃から両親は大阪と済州島を往来し、カネになる物を探しては手当たり次第に販売した。大金を稼ぐには至らずとも、日々食いつなぐことはできていた。
日本の統治時代、済州道には韓日路線が活発に運航していた。君が代丸や咸鏡丸、京城丸、蛟龍丸、伏木丸、順吉丸など、連絡船が多数大阪との間を行き来していた。
中でも有名な船は君が代丸だった。済州の人々が「グンデファン」と呼ぶこの船は、躯体も一番大きく、旅客と貨物を同時に輸送できる貨客鉄船だった。そのため、グンデファンは連絡船の代名詞とされていた。済州島の人々の「恨」が込められたグンデファンは、歌詞としても残されている。
「無情なグンデファンは私を乗せ、ただ苦労ばかりさせるのだ。空には無数の星が浮かんでいるが、私は常に苦労ばかりだ。ああ、哀れな体よ。日本のどこかに閉じこもって」
両親が連絡船で往来しながら商売をしていたある日、突然、韓日間のすべての航路が断絶されてしまう。


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