私が出会った在日1世~金達寿の歩いた道① 安部柱司

20年間の師弟関係で見えてきたこと
日付: 2023年07月25日 13時12分

 私は1961年に上京し、その翌年の62年5月には金達寿を知る。むろん張斗植も同時に知った。リアリズム研究会の門を叩いたのである。
リアリズム研究会の事務所は新宿西口の朝鮮奨学会館の1階にあった。私は渋谷区本町一丁目に住んでおり、リアリズム研究会の事務所まで歩いたものだ。当時の私は朝鮮奨学会館が野口遵の所縁の建造物だとは知らなかったが、日本窒素については結構な知識があった。
10代、故郷で日共系の青年運動に従事し、在日の帰国運動に関わり、その歴史を知るために小倉駅近くの金栄堂書店で岩波新書の『朝鮮』を求めた。むろん、北九州には朝鮮人が多く居住していた。高校に進学すると在日の友人が多くできた。2000年代に入って、友人の迫一郎君から、かの有名な孫正義氏が幼少期に過ごした場所は、高校近くの在日の集落だと教えられた。迫一郎君はNHKに勤務していたので取材過程で知ったのであろう。
『朝鮮』で得た朝鮮の歴史をもっと知りたくて、リアリズム研究会に金達寿を訪ねたのである。リアリズム研究会で金達寿と知り合って、それから1981年4月に訪韓した金達寿の元を去るまで、20年間続いた師弟関係であった。
のちに現代コリア研究所の佐藤勝巳所長からは、研究所が筑波に移転したことで、(私が)使いものにならなくなったから金達寿に捨てられたのだろうと指摘された。確かに79年12月、私が茨城県筑波郡谷田部町へ移住することになり、金達寿の作品の下調べは出来なくなっていた。それまでは就業時間後に国立国会図書館へ通い、主として地方史に目を通すという手伝いをしていた。金達寿が『日本の中の朝鮮文化』を書く資料蒐集を手伝っていたのである。
確かに、助手的な仕事が出来なくなったのでお祓い箱になった側面もある。だが、それだけではない。国立国会図書館所蔵の地方史に目を通していく中で、古代よりも近世の半島と列島の関係に関心を抱く私と金達寿の間に溝ができていたことの方が大きかった。それに勤務先の東京工業試験所が80年に創立80周年を迎え、その歴史を編纂することになったのだ。私は編纂委員に就いた。それは金達寿への協力度合の減少を意味していた。そのような経緯があり、金達寿の「年譜」作成の手伝いが最後になる。
私は金達寿の畏友であった張斗植の年譜を作成していた。その実積が還暦を迎える金達寿自筆の年譜作成に役立ったのである。
金達寿が97年5月に77歳で死去した後、その生涯を追った幾つかの「伝記」が刊行された。
速さで驚くのは、金達寿の死後一年で批評社から刊行された『海峡に立つ人』である。著者の崔孝先氏は、金達寿の生前からその作品を研究テーマにしていた。韓国からの留学生の崔孝先氏には、金達寿の作品に己の姿が投影されたのだろうか。
崔孝先氏は1957年韓国に生まれ、漢陽大学校で日本語を学び、1988年に龍谷大学へ留学する。崔孝先氏が渡日して6年後の1994年には『金達寿・海峡に立つ人』を発表している。続いて1995年には龍谷大学大学院紀要に「金達寿文学の三つの流れ」を発表する。その後ひたすら金達寿研究に注力し、金達寿の死亡する直前の1997年1月に、『金達寿在日同胞組織への入会と脱退に関する一考察』を発表している。
崔孝先氏の金達寿研究には敬服する一面、金達寿の40歳から60歳まで(私は21歳から41歳であったが)側にいて、金達寿を「海峡」に立った人として見たことはなかった。さらに言えば、同胞の組織に入会と脱退を繰り返した人、思想遍歴を繰り返した人とは見えなかった。
「この日本を朝鮮人に住みやすい国にする」そのために一生を懸けて戦い続けた人であった。


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