いま麹町から 19 髙木健一

北朝鮮訪問②~戦争被害調査など
日付: 2023年07月18日 12時35分

 私が初めて北朝鮮を訪ねたのは、1992年の8月です。新潟港から万景峰号に乗り、北朝鮮の東海岸にある元山に上陸し、元山から平壌までバスで移動したのです。
この頃はすでに韓国の遺族会による元軍人・軍属と従軍慰安婦を原告とする裁判が前年の91年12月6日に提起され、私はその裁判の弁護団長をしていました。その関係もあり、北朝鮮での戦争犠牲者の調査に参加したのです。
このとき平壌で私たちは4名の元慰安婦と6名の男性の強制連行被害者から聴取することができました。
北朝鮮側としてあらかじめ調査をするなどしており、力を入れた対応でした。韓国の元軍人・軍属や元慰安婦の体験と重なり合うところもあり、私にとっても大変興味深い聴取でした。

北朝鮮のある日本軍の元軍属はトラック諸島の夏島、春島での朝鮮人慰安所の建物修理を担当したと話していました。その軍属は戦争中は日本兵の慰安婦にさせられ、日本敗戦後は進駐してきたアメリカ兵の慰安婦にもさせられたのを目撃していました。
私はその6年後の98年10月にマーシャルとトラック諸島を訪問しました。トラック諸島には当時の慰安所は何の痕跡もなかったのですが、その存在を覚えている人がいたのは驚きでした。

このように日本の戦争犠牲者はフィリピン、マレーシア、シンガポール、インドネシアや太平洋の島々を含めて朝鮮や中国の至る所に存在しているのです。
日本人はこのような戦争犠牲者に対する後始末をこそ、戦後直後から取り組まなければならなかったと思います。
その中でも日本が支配をした朝鮮、台湾、樺太などについては、優先的にまず財産権について「特別取極」を実行することを義務付けられたのが、何度も指摘しているサンフランシスコ条約第4条なのです。
郵便貯金など財産権の後始末ですから、戦後なるべく早期に取り極められることを期待されていたのです。
その上で、戦争犯罪にあたる従軍慰安婦問題や強制連行・強制労働被害の回復が必要です。
その意味で、戦後70年以上も経過した今なお、北朝鮮に対して何の対策も取っていないのは取り返しのつかない日本の落度です。拉致問題とか核ミサイル問題は言い訳にならないと思います。戦後被害者(生存者と遺族)がまだ残る今が最後のチャンスです。

また、私は98年8月にも北朝鮮を訪問する機会がありました。水害の支援を兼ねた友好訪問団に同行し、金剛山登山も経験したのですが、北朝鮮では№3といわれる金容淳党書記と食事をすることができました。
それから半年ほどして今度は韓国で金大中政権下の№3といわれる国家情報院の李鐘賛院長とも食事をしました。
いずれも貴重な機会でしたが、私は持論の戦後補償について話をして、評価を得た覚えがあります(なお、金容淳書記は2003年6月に交通事故で亡くなりました)。

次に私が北朝鮮を訪問したのは2011年8月、拉致被害者家族の寺越友枝さんに同行したときでした。
平壌空港には息子の寺越武志さんたちが迎えに出ていました。私たちは武志さんの体調が悪いこともあり、日本への一時帰国の実現を要請したのです。
しかし、北朝鮮側は02年9月の小泉首相訪朝後の5人の「一時帰国」を認めたのにこれを返さず、北朝鮮が善意を示せば示すほど両国関係は悪化するとの認識を強調していました。
結局、環境が整わないとして武志さんの一時帰国はかなわなかったのですが、60回以上も訪朝した母親(友枝さん)の子を想う執念には打たれました。


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