米国のアジア政策が変わり、大韓民国の安保は厳しい環境におかれた。この時期の東アジア情勢を俯瞰するため、日中国交正常化を前後に韓半島や東アジア、韓日関係をもう一度振り返って見よう。
金日成は、米国がベトナム戦を拡大し、韓国軍の戦闘部隊がベトナムに派兵するや、北韓軍もベトナム戦に参戦しながら、韓半島をベトナム戦の第2戦場化することを決めた。
平壌の労働党対南事業総局は1967年4月、民族保衛省偵察局に韓国でゲリラ戦を戦う特殊部隊の124部隊(2400人)を創設した。彼らは8つの基地に分散、ゲリラ戦を訓練した。
労働党対南事業総局は68年1月2日、124軍部隊にソウルの青瓦台、米大使館、陸軍本部、ソウル刑務所、西氷庫のスパイ収容所などを襲撃する作戦を準備するよう指示した。1月13日、奇襲目標が青瓦台に決定された。特攻隊31人は1月17日夜、開成を出発、軍事境界線を超え21日の夜9時30分頃、青瓦台付近まで接近したが、警察の不審検問で正体が露呈、逃走した。
だが、金日成は、青瓦台奇襲失敗の2日後の1月23日、東海で米海軍情報収集艦のプエブロ号を拿捕、乗務員83人を人質にした。その1週間後の1月30日、南ベトナムの全域で旧正月攻勢が始まった。ベトコンのこのテト攻勢は軍事的には膨大な被害を出して失敗したが、政治的には米国内に決定的な反戦世論を作ることに成功した。68年11月の米大統領選挙で当選したニクソンはベトナム戦の放棄を決心する。
米国の反戦世論を見た平壌側は、ニクソン大統領の就任間もない69年4月15日、東海上で米軍偵察機EC121機を撃墜した。乗務員31人は全員死亡。米国は激怒したが、韓半島での戦争を諦める。
ニクソン大統領は69年7月25日「グアム・ドクトリン」を発表、「アジア諸国は米国に依存せず、自ら安全保障を守らねばならない」と宣言、「ベトナム戦争のベトナム化」を推進した。もちろん、ニクソンとキッシンジャーの「グアム・ドクトリン」は「中ソの分断」という遠大な戦略のための布石だった。ベトナム戦参戦国らは素早く対応した。フィリピン工兵団1500人を69年12月31日までに撤収した。タイも70年8月、ベトナムからタイ軍の撤収を発表した。
在韓米軍を継続駐屯させるためベトナムに大兵力を派兵した韓国は困惑した。しかし、米国は70年4月、駐韓米軍1個師団の撤収を韓国政府に通報した。71年3月、駐韓米陸軍7師団が撤収した。韓日国交正常化によって守勢に置かれていた朝鮮労働党日本支部(朝総連)はこのような情勢を見逃さず、日本政界の工作を強化した。まず地方自治体を対象に日朝友好促進議員連盟を結成(71年11月)し始めた。
「グアムドクトリン」から日中国交正常化、パリ和平協定(73年1月27日)とニクソン大統領のベトナム戦終戦宣言(73年1月29日)と米軍の完全撤収(3月29日)は 自由陣営の最前線に立つ大韓民国にとっては大きな試練だった。
「7・4南北共同声明」は結局、時間稼ぎだった。韓国政府が米国との関係疎遠を補完するため日本との関係強化を急ぎ「韓日議員懇親会」を発足させたのは72年5月。だが、韓日関係は既述したとおり激浪に巻き込まれる。この懇親会を発展的に解散、韓日議員連盟が結成されるのは、韓日大陸棚共同開発協定が調印された1年後の75年だ。
(つづく)