私が出会った在日1世~『くじゃく亭通信』を発行した高淳日①

コーヒーの代わりに韓国料理と画廊喫茶を紹介
日付: 2023年06月13日 12時37分

 『くじゃく亭通信』は1976年に刊行された。渋谷のNHK近くにあった韓国料理店「くじゃく亭」と東急本店横の画廊喫茶「ピーコック」を経営する高淳日が発行人だった。NHKに近いこともあって、高淳日は「NHKで朝鮮語講座を開設してほしい」と朝日新聞に投書し、74年11月26日付の「声欄」に掲載される。それから9日後の12月5日の同欄に、NHK側の「朝鮮語講座でお答え」という返答が掲載される。
「NHKに朝鮮語講座の開設を要望する会」は、評論家の矢作勝美が『季刊三千里』誌に「NHKに朝鮮語講座を」と投稿したことが契機となった。高淳日が朝日新聞に投書してから1年以上が経過していた。
この間の時代背景に、平壌文化語を日本に普及させようという動きがあった。金炳植副議長が平壌文化語を日本へ持ち込もうとして、韓徳銖議長との権力抗争に発展する。一旦は韓徳銖議長が金炳植を北韓へ追いやることで解決する。以前にも触れたが、73年には金達寿が「韓徳銖はズーズー弁を民族教育の現場に持ち込むようだ」と、朝鮮文化の旅を共にしていた私に向かってぼやいている。
平壌文化語は、日本では社会党の佐々木更三委員長の使う仙台の方言に当たると説明した。佐々木更三委員長の話し方は人気があったので、「そうか金日成の言葉は日本で言えば佐々木更三委員長の親しみやすいズーズー弁なのか」と親近感すら覚えたものであった。しかし、金達寿は「朝鮮民族の統一のためにはソウルの言葉が共通にならなければ成らない」と断じた。

徐彩源を社主とする三千里社が発足し、『季刊三千里』誌が発行された背景には平壌文化語を巡る韓徳銖と金達寿の争闘があったのだ。要望する会の事務局長には矢作勝美が就く。矢作勝美事務局長を補佐する役目に安部桂司が就く。当時、私は「阿部桂司」として金達寿の「日本の中の朝鮮文化」の旅に同行していた。その頃の金達寿は京王線沿線に居住しており、私の職場は京王線初台駅から歩いて5分の場所にあった。そのため、私を使うことは何かと便利だったのだと思う。
私は、渋谷区本町一丁目にある通産省傘下の東京工業試験所が勤務先であった。東京工業試験所と韓半島の関係には朝鮮総督府管轄の中央工業試験所と人事交流があった。初台から坂を下って行けば渋谷駅周辺に至るのだ。その坂道に沿って喫茶店ピーコックがあった。その喫茶店に通うようになったのは金達寿の指示でもある。「NHKに朝鮮語講座の開設を要望する会」の運動の拠点として、阿部桂司は画廊喫茶のピーコックを使わせてもらった。

金達寿は「大盛堂書店の舩坂弘に運動への協力を頼みなさい」とも言った。大盛堂は渋谷の交差点前に立地していた。当時書店は他の場所に移っていたが、社長室はビルの最上階にあり、そこを訪れて舩坂弘社長に依頼した。渋谷駅周辺で行う署名運動への協力をお願いしたのである。その時は彼が三島由紀夫に日本刀を贈った人物とは知らなかった。彼は渋谷警察署へ手配してくれ、署名運動はスムーズに行うことができた。
運動の拠点としてピーコックを使わせてもらい、ただでコーヒーを飲むのは気が引けた。そこで経営者の高淳日にコーヒーをサービスしてもらう代価として、喫茶店と韓国料理を紹介する新聞を発刊することを提案した。
今読めば恥ずかしいが、「前田俊彦の『瓢鰻亭通信』のようなものを出してみたい」という刊行の言葉が記載されている。
『くじゃく亭通信』は、76年11月18日に第1号が発刊された。通信を出すにあたって高淳日からは、済州島の研究を深めてくれとも依頼された。有明海の漁業の関係で、私は済州島研究の調査を進めていたが、それへの支援もしたいということだった。


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