韓日両国は1974年、大陸棚共同開発協定を締結から4年5カ月後の78年6月22日、東京で批准書を交換、発効させた。韓日両国は、石油の確保が切実な国だ。さらに、アラブ諸国とイスラエル間の第4次中東戦争(73年10月)により、石油価格は急騰していた。
ところが韓日両国ともに切実に必要な石油を確保できる海底油田共同開発協定を締結するために、なぜこのように時間がかかったのだろうか。韓日国交正常化から10年も経たないうちに、両国関係をめぐる環境条件にどういう変化があったのだろうか。日本はどうして共同開発に消極的になったのか。
もちろん、韓日両国は、安保と経済面において、環境条件と立場が根本的に違った。韓日は共通の同盟である米国の誘いで、反共同盟としての国交正常化をしたわけだが、韓日両国は、米国との同盟において大きな差があった。経済発展に必要な資金と支援を得なければならなかった朴正煕大統領は、経済発展と同時に、韓米関係を発展させるためにベトナム戦争を積極的に利用した。
韓日両国は、国際情勢の変化に対処する立場、戦略も当然違っていた。韓国はベトナム戦場に飛び込まねばならず、日本はベトナム戦場に飛び込む必要もなければ、飛び込むことはできなかった。
このような状況の中、ニクソン・ドクトリンは、東アジアにもNATOのような反共軍事同盟が出現する可能性をなくしてしまった。米国は東アジアで反共軍事同盟が要らなくなった。このことでもはや韓日両国の軍事同盟化の可能性は消えた。
米国の決定を見た日本は、機敏に中共との国交正常化を推進した。しかし、大韓民国はパニックの中では何もできなかった。中共が交戦相手だったからだ。米国の「裏切り」に直面し貧弱な軽工業中心の経済構造を、自主国防のための重化学工業中心に変えなければならなかった。
日本は、韓国との海底油田共同開発に集中する理由がなくなったと考えてもおかしくなかった。韓日関係は、国交正常化が10年経つ前に、目に見えない巨大な戦略的亀裂が生じ始めた。政治的にも両国間には摩擦が生じていた。振り返ってみると、大陸棚共同開発は当初から順調でなかったし、順調であり得なかった。
大韓民国が宣言した海底7鉱区に対して日本政府も所有権を主張し、両国間の実務者会談が開催されて以来、韓日間にはニクソン・ドクトリンだけでなく、両国関係を揺るがす事件が続いていた。金大中拉致事件は、日本世論の韓国(朴正煕体制)に対する警戒と嫌悪を決定的なものにした。
韓日の離間を戦略の最優先課題としてきた朝鮮労働党が、金大中事件に対する報復の次元で、彼らの日本支部を通じて送った刺客・文世光による朴正煕大統領狙撃、陸英秀夫人暗殺は、韓国社会の日本に対する不信と国民的憤怒を爆発させた。59年以来、日本が続けてきた在日韓国人(朝鮮人)北送工作に対する国民的怒りが再燃された。
実際、韓日間には互いに国民的摩擦が存在してきた。政府が抑制、管理し難い葛藤だった。日本側はサンフランシスコ講和条約発効の前、まだ米国の占領下に置かれていたときの52年1月18日、李承晩大統領が宣言した「大韓民国の隣接海洋の主権に対する大統領宣言」(李承晩ライン、国務院公告第14号)について 日本国民の反感を呼んだ。李承晩ラインは13年後の、国交正常化で漁業協定に置き換えられた。
(つづく)