いくら良好な国家関係にも摩擦や葛藤(懸案)はある。「国際関係」とは、関連国が摩擦と葛藤などをどう管理していくか、である。韓日両国が新たな好恵関係の出発を誓った国交正常化後、また韓日間に不信と葛藤が現れるのは自然な現象と言える。問題は、懸案葛藤に対する姿勢だ。韓国の日本に対する不信の胎動過程を見てみよう。
そもそも、韓日国交正常化はもっと時間がかかってもおかしくなかった。現代化革命のための経済開発資金が切実だった韓国は、日本との関係正常化が急務だった。安保面でも「島国」だった大韓民国は、海洋への出口の日本と良好な関係を構築せねばならない。しかし、敗戦で膨大な植民地領土とすべての権益を放棄、剥奪された日本の立場では、韓国との善隣関係の模索を急ぐ理由はなかった。
日本が国交正常化に乗り出したのは当然、国家的な総合的判断によるものだが、何より米国が求めたからだ。米国の世界戦略上、西太平洋の防御態勢を、効率的で確固たるものにするためには、共産圏との対決で決定的役割を果たす国連軍司令部のある大韓民国と、国連司令部の後方司令部が位置する日本、米国のこの2つの同盟がNATOのように同盟化するのが望ましい。
いずれにせよ、すでに戦後を克服し圧倒的な経済力を整え始めた日本は、大韓民国を対等な国家関係として対しなかった。日本は経済力を武器に大韓民国を圧倒するという考えや姿勢を隠さなかった。そして大韓民国の第7鉱区開発を実力で阻止、挫折させた。
大韓民国は1974年1月30日、ソウルで調印した韓日大陸崩共同開発協定の国会批准を年内の12月17日に終えた。一方、日本側の国会批准は延々と遅れる。まず、韓日間大陸棚共同開発協定の調印1週間も経たない2月5日、中共側が韓日協定は中共の主権侵害であるという外交部声明を発表した。そのためか、日本は及び腰になる。もっとも、日本は両国間のこの協定のための実務者会談で、共同開発原則を合意した72年9月、中共との国交正常化を電撃的に合意した。
この協定の批准案を扱う日本国会には当然、「東シナ海の大陸棚協定は中共を含め、関係国の協議によって決定すべき」と主張する中共の立場を代弁する勢力が存在した。中共側は、日本国会で会期延長問題がヤマ場だった77年5月にも「韓日大陸棚協定の批准は日・中共関係に悪影響を及ぼす」と強く牽制した。中共との平和友好条約締結を急ぐ立場だった日本にとって、中共側の圧迫は無視できなかったと考えられる。
協定調印から日本国会の批准案が通過するのに3年4カ月がかかったが、協定を発効させる批准書の交換まではまた1年以上かかった。韓日大陸棚協定第4条は、批准書交換後、両国が3カ月以内に開発権者を指名するよう規定しているため、日本側は開発権者の資格、採掘権の具体的な内容を規定する、日本国内の手続き法である「大陸棚共同開発に関する特別措置法案」を作らねばならないからだ。特別措置法は、衆議院と参議院で78年4月7日と6月14日、それぞれ通過した。
要するに、日本側はエネルギー安全保障が決定的に重要であるにもかかわらず、そしてオイルショックで石油資源が国際秩序をも揺るがす状況になっても、自国にも有益な韓日大陸棚共同開発を決して急がなかった。口実さえあれば共同開発協定を遅らせ、韓国から見れば、故意にサボタージュしたと言える態度をとってきた。
(つづく)