新解釈・日本書紀 応神<第80回>

日付: 2023年05月23日 11時01分

■仲彦(上道臣・香屋臣の先祖)
上道臣は、日本書紀・雄略紀には吉備上道臣田狭らが大和朝廷に反逆する事件を載せ、一方で、田狭の子らが、百済から渡来した陶部、鞍部、画部、錦部、訳語などの才伎(技術者)をつれて帰国したと記されている。上道の称は仲彦の分封以後に起こったもので、下道の名も生じた。旧事本紀・国造本紀に「上道国造、軽島豊明朝(応神)御世、元封中彦命兒多佐臣、始国造」とある。
■弟彦(三野臣の先祖)
旧事本紀・国造本紀に「三野国造、軽島豊明宮朝(応神)御世、元封弟彦命、次定賜国造」とある。加佐米山は備中津高郡と御野(三野)の境にあり、備前御野郡の地に比定されている。
■結語 応神は沸流百済と和珥氏族の両面人格
「未知の世界から忽然と現れた」応神と形容される応神朝は、謎の4世紀の時代に登場した新王朝だとされているが、倭地に古くから蟠踞していた和珥氏族と、高句麗広開土王に撃破され倭地に亡命した沸流百済との合体王朝であることを突き止めた。
王仁をワニとはどうひっくり返しても読めないが、王仁を韓国語で読むとワン・イム↓ワニとなり、王様という意味になる。そこに大きなカラクリがあることを発見した。つまり、応神=王仁が王仁=和珥と読まれるカラクリだ。それは、王仁が応神であり、王仁は和珥でもあるということだ。応神は両面人格であった。王仁も辰王の子孫と思われる。沸流百済が、建国当初、辰王に威を借りて国づくりをしたように、倭地でも同様に辰王の子孫である王仁の力を借りて国づくりをしたということだ。辰韓の王統であった辰王の権威は、倭地でもすべての種族が認める絶対的権威であったと推測される。
応神は、品陀真若王の娘3人を妃としているが、品陀真若王は、丹波道主↓日葉酢姫↓五十磯城入彦↓五百城入彦↓品陀真若王という系譜で、品陀真若王の家に外部からきた応神が入婿したという解釈も可能で、応神から新王朝になったことを暗喩する。当時の大王は品陀真若王で、外部の沸流百済を迎え入れたと示唆するが、品陀真若王の母系が尾張氏で、尾張氏を外戚とする大山守王が、和珥氏を外戚とする菟道稚郎子と皇位を争って敗死するというエピソードがあることから、和珥氏が尾張氏にとって替わったことを意味する。
和珥氏の祖とされる難波根子武(建)振熊は、京都は丹後の海部氏勢力と縁が深く、河内・大和をも領知していたと考えられる。それゆえ、当時の和珥氏の頭領は、武(建)振熊であった可能性が高く、応神朝の成立に協力したと考えられる。
大和に侵寇し突如百済系大和王朝を樹立した沸流百済は、王仁を大王にして、倭地における和珥王朝であるかのように偽装し、新羅系山陰王朝の不満や反発をそらした。そのカラクリに気付いた勢力は反発したが、結局は抑えこまれ取り込まれて、新羅系山陰王朝は、百済系大和王朝によって簒奪されたのである。(完)


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