東アジア文字考〜漢字を巡る遥かなる旅 第4回 水間一太朗

失われつつある東アジア漢字文化圏
日付: 2023年05月23日 10時59分

●漢字には表音文字がない

 漢字には、アルタイ諸語のような表音文字はない。そのため、外来語の表記にはすこぶる困難を要する。マクドナルドは麦当労、コカ・コーラは可口可楽、ケンタッキーは肯德基、これは、それぞれの企業が中国進出の際に北京語を基準として語呂合わせをしたものだ。そのため、発音は地域によって異なる。カメラのキヤノンは桂能と表記するが、上海語ではキヤノンとなるのに北京語ではカノンという感じの発音になる。これは、キヤノンが普及した当時は上海が交流の中心であった所以である。現在、新語に関しては、北京語を基にした新華社通信の表記によって決定される。
漢字での表音が困難であったために、東アジア漢字文化圏では、読み下しや書き下しなど、様々な方法が研究され、固有の文化が発展していった。そこで生まれた文化が、漢字をその国の発音で利用するという『相互主義の原則』である。特に地名や人名にはこの相互主義はすこぶる便利な方式であり、それは『国際協定』として発展していった。
ところが、その文化を大手メディアが踏み躙っていった。二〇〇二年、まず朝日新聞が協定を破り、次第に他のメディアも続くことになる。現地語表記を試みるというのだ。実はこれが混乱をきたしている。そのことに当の本人たちは気付いていない。これが問題なのだ。
一昨年の『Newsweek・Tokyo eye』の外国人リレーコラムに、ジャーナリスト習来友氏の記事が掲載された。在日中国人の立場からすると、習近平の発音を相互主義の原則に従って「しゅうきんぺい」と発音してほしいという懇願のような記事である。「シーチンピン」「シージンピン」色々あってよくわからないというのである。これは当たり前の話なのだが、カタカナでは中国のピンインは完全には表記できない。このことにより、誰のことを言っているのかが分からなくなるというのである。

● 失われつつある漢字文化圏


尹錫悦大統領のカタカナ表記は、さらに謎が深まる。ウィキペディアで尹錫悦と検索すると、いきなり次の表示が現れる。「この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。ユン・ソンニョル、ユン・ソギョル、ユン・ソンヨル、ユン・ソクヨル」と四つの表記が出てくる。この原因は簡単で、韓国では漢字のハングル表記が統一されていないことによる。錫悦の発音は、韓国国立国語院の記載方法での日本語表記では「ソギョル」となる。しかしご本人の申告が違うので、「ソンニョル」だったり「ソンヨル」だったり揺れが生じてしまうのである。これが相互主義の原則に従えば簡単に問題は解決する。「いんせきえつ」と発音すれば良いのだ。
この現象は諸外国においても皆同じだ。韓国語では日本語の『ず』は表記できない。そのため日本人に一番多い姓である『鈴木』も正確には表記できないことになる。せっかく、漢字文化圏という文化が育まれたのだ、頑なな国粋主義によって、歴史によって育まれた『相互主義の原則』という文化を蔑ろにするのは、国際交流の礎を開拓してきた先人に失礼というものであろう。
ところがである。現代では、そもそも漢字文化そのものが消えつつある。韓国では漢字が書けない人々が増加し、原意がわからないが故の混乱が生じている。中国では、繁体字から簡体字に切り替えたので、漢字の原意は消えてしまった。香港の繁体字も風前の灯となった。一国二制度を破った中国が繁体字を排除するのは時間の問題だからだ。残るは台湾と日本のみ。しかし台湾もまた緊張の度を深めている。このような国際情勢の中で、古代からの共通語であった漢字の原意を知り、交流を深めることの意義はまことに大きいといわねばなるまい。  (つづく)


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