新解釈・日本書紀 応神<第78回> 

伴野 麓
日付: 2023年04月25日 10時29分

■阿波国に応神村
阿波国は、いにしえ、粟国などと称され、日本書紀・神代紀に「粟国忌部遠祖天日鷲命、所作木綿」、旧事本紀・国造本紀に「粟国造、軽島豊明(応神)御世、高皇産霊尊九世孫、千波足尼、定賜」と記載がある。
和名抄には「阿波国板野郡小島郷」が載っており、「小島」を「乎之萬(おしま)」と読んでいる。『河波志』によれば、小島郷を廃して貞方村を設け、貞方、中原、古川、吉成など吉野川河口の地域を合併して応神村と称したという。中原村に別宮八幡宮があり、筑前別宮を迎え祀ったものだということだ。


■吉備
応神妃の兄姫が両親を恋しがって吉備に帰省したのだが、応神の見送りが、今生の別れのように大げさなのは少しばかり腑に落ちない。とまれ、吉備に帰った兄姫は織部を賜った。織部は服部に同じで、賀陽郡服部郷に比定されている。兄姫の子孫が吉備国に繁衍したのだが、阿知使主が、応神が崩御した後につれてきた衣縫を吉備の蚊屋に置いたことから、織部(服部)の名が起こったとされる。
付近に阿智郷や阿智神社などがあることから、吉備の地は、もともと御友別が領知する地であったものを、改めて、応神が下賜したという形式をとったものと考えられる。換言すれば、御友別が応神に対して臣下の礼をとったということになる。
吉備の造山古墳、作山古墳、両宮山古墳の3古墳は、河内の大山古墳(伝仁徳陵)、誉田山古墳(伝応神陵)、石津丘古墳(伝履中陵)の3古墳に次ぐ大きさで、5世紀頃に築造されたものと見られている。これらの古墳は、御友別一族が、応神の亡命の際にもたらされた韓地での先進古墳築造術に触れて築造されたものと推量されている。


■御友別(吉備臣の先祖)
日本書紀・孝霊紀に、稚武彦が吉備臣の先祖、同・神功紀には鴨別が吉備臣の祖、同・応神紀には御友別が吉備臣の先祖としている。それらの系譜を整理すると、孝霊の子の大吉備津彦と稚武彦が最初に吉備国を経略し、稚武彦の子を吉備彦といい、ヤマトタケル(倭武)に随従して軍功があったというものだ。稚武彦の裔孫が後世、繁衍したということだが、吉備彦の子が御友別で、御友別は御友耳日子ともいい、応神朝に御友別の子弟が吉備国に封土を賜ったと記す。
川島県を長子の稲速別(下道臣の先祖)に、上道県を中子の仲彦(上道臣・香屋臣の先祖)に、三野県を弟彦(三野臣の先祖)に分け与え、波区芸県を御友別の弟の鴨別(笠臣の先祖)に、苑県を兄の浦凝別(苑臣の先祖)に、織部を兄姫に賜り、子孫はいま吉備国にいるという。
和名抄に「上道郡幡多郷」を載せ、郷内に関、高屋、藤原、澤田等の地名がある。幡多郷は、応神が行幸した葉田の葦守宮の地とされ、高屋はその宮殿による名とされるが、確証はない。幡多は機織部の略とされ、その部民の住所とされる。葉田は服部の訛言で、織部県と同じ地とされ、葉田の葦守宮があった所で、葦守は足守とも表記される。


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