新解釈・日本書紀 応神<第77回>

伴野 麓
日付: 2023年04月18日 12時30分

■誉田
誉田の地は、もとは志紀郡の地であったが、中世より古市郡に属した。誉田林は藻伏山陵をいい、誉田河原は石川の河原をいう。誉田の北に当宗神社があり、宇多の外祖母にあたる当宗忌寸の祖神を祭る。新撰姓氏録によれば、当宗忌寸は後漢献帝の4世孫の山陽公の後孫となる。
大阪府羽曳野市の誉田山古墳は応神陵とされるが、そう認識されるようになったのは平安時代の頃だ。歴史・考古学者の藤間生大は応神陵を倭王珍(反正)、仁徳陵を倭王済(允恭)の陵に比定している。応神陵は『諸陵式』に「恵我藻伏山陵」と記され、兆域(墓地)は東西5町南北5町であったといい、地の人らは八幡山と称した。
■吉士と岸部
応神朝に王仁や弓月君、阿知使主が渡来しているが、古事記にはそれぞれ和邇吉師、阿知吉師とある。その吉師の名称だが、新羅の吉士の称を移した爵位だという。吉志は岸に通じ、岸部はかつての吉志部だったということだ。
古事記に「忍熊王(仲哀天皇の皇子)以難波吉師部祖」「吉師祖五十狭茅宿禰」などの記載があり、『氏族志』によれば、熊之凝が多古吉士の祖ともいう。
本居宣長著『古事記伝』は、吉師は大彦より出て吉師舞という語もあるとする。続日本紀に「摂津職奏吉師部楽」とあり、大彦の後裔である阿部氏の一党が昔、大嘗会の日に吉志舞を奏したことが伺える。田植神事の変化したものとされる住吉踊は下賤の舞とされているが、吉士舞の流れをくむとされている。
■隼人荘
京都府八幡市の男山丘陵東麓の木津川左岸一帯は、中世には隼人荘とよばれ、隼人の居住地であった。その居住の始めは、考古資料から応神・仁徳朝の5世紀頃とされている。隼人を代表するのが大住隼人で、大住は大隈に通じ、大隈宮は大住宮と書き換えることもできる。応神の大隅宮の所在地は、あるいは男山丘陵にあったとも考えられる。
■百舌鳥
和名抄に大鳥郡土師郷を載せ、土師を波爾之と読んでいる。その土師郷に応神陵と仁徳陵が土師氏によって造営されたというのだ。土師郷は後世、東百舌鳥村(大字土師)、西百舌鳥村(大字百済)、中百舌島村(大字梅村)の三つに分かれた。万代(百舌鳥)八幡宮の社伝に、「応神帝初め百舌鳥野に葬り、後誉田に移し奉る」とあり、宮前の溝を百済川と称した。
百舌鳥野は、古事記には毛受野あるいは石津原と記し、毛受を中世から万代とも記すようになった。その地に殯陵や荒墓が多いことから、中国史書が天子の寿蔵を万代城などと記すことにならって万代と書き、毛受と読んだものだという。寿蔵とは、存命中に建てておく墓のことだ。


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