新解釈・日本書紀 応神<第75回>

日付: 2023年03月23日 10時54分

(93)応神ゆかりの地・つづき
■播磨
兵庫県姫路市白国の市川の沿岸に砥堀(とほり)という地名があるが、播磨国風土記は「応神朝に、神前郡(かんざきぐん)と飾磨郡(しかまぐん)との境の大川の岸に通路を造った時、砥石を掘り出したので砥掘(堀)と名づけた」と記している。であれば、その地域は応神朝の頃に新たに開拓あるいは再開発されたことを示唆する。
姫路市大市中という大市の地名については、応神がこの地に巡行した折、裕福で大家が多いので「おおうち」と名付けたが、後に訛って「おおいち」となり、「大市」の字が当てられたと記す。また、応神が夢前(ゆめさき)の丘に登ると、北の方に白い色の物が見えたので、上野国(こうずけのくに)の麻奈比古というものに視察させたところ、「高いところから落ちてくる水」と報告したので、その地域を高瀬村と呼んだという。そして応神が槻折山(つきおれやま)に行幸した時、森のようにそびえる倉庫をみて倉見里と名づけたとある。


■難波
難波は大和朝廷の成立以来、応神の大隅宮、仁徳の高津宮、欽明の祝津宮、孝徳の長柄豊崎宮、斉明の難波宮、聖武の難波宮などが置かれた。
上町台地は摂津国とされているが、8世紀以前は河内国だった。摂津というのは、天武6年(678年)に難波の都に摂津職という行政機関が設置され、延暦12年(793年)以後、国名に用いられたという。
応神の時代は摂津国は存在せず、河内国は摂津国をも含む広域な地域であった。応神は河内地域に王朝を形成したので河内王朝ともいわれるが、その河内王朝は百済系大和王朝と併存する形で存在していた。
難波という地名は、大阪湾の潮流の速いことを象徴して浪速とも、また波頭を華にたとえて浪華とも記され、難波はナニハの借字だという。その難波は古来、難波八十島と称された。海水の侵蝕で形成された大小の島々が連なり、長らく居住が困難な地であった。上町台地、摂津台地が当時の中心地とみなされている。
上町台地は、現在の大阪市東区法円坂の南側から泉州地域まで連なる丘陵地帯で、仁徳の高津宮、欽明の祝津宮、斉明・聖武の難波宮が重層遺跡として発掘されている。上町台地の東側は旧大和川や百済川(現平野運河)が流れて山城川(現大川)に流れこみ、西側は血渟海(現大阪湾)に面して浜をへだてて百済洲(旧北中島)、新羅洲(旧南中島=現中央区島之内)など多くの島々が散在した。
難波大郡(なにわのおおごおり)は難波館、あるいは津館といい、後には鴻臚館(こうろかん)とも称されたが、応神・仁徳朝の頃に設備されたといわれる。摂津志によると難波館は安国寺坂上にあった。古事記伝には、安国寺坂上は上本町通安曇寺町筋の民家付近で、そこに小祠があり、古宮跡と伝えられていたという。
日本紀に、舒明帝の時代に「難波の大郡に三韓館を修埋」とあり、この三韓館を延喜式では難波館という。『名所図会』に「三韓館は真田山の北一町許に旧址あり、字を唐居殿(からいどの)と云ふ」と載せる。唐居殿は韓家殿の意味とされる。


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