新解釈・日本書紀 応神<第74回>

伴野 麓
日付: 2023年03月07日 11時31分

(93)応神ゆかりの地

■筑紫・日向
筑紫の香椎宮(かしいぐう)は、仲哀・神功を祭神とし、相殿(あいどの)に応神と住吉大神を配祀する。香椎宮は古事記では「訶志比宮(かしひのみや)」、日本書紀では「橿日宮(かしひのみや)」と記される。カシヒの名前の由来を古代韓語に求め、韓地の宗廟(歴代の王および王妃の位牌をまつる霊廟)思想に基づいて造営されたのではないかと見られる。
日向の地に鎮座する宮崎神宮は、神日本磐余彦(かむやまといわれびこ/神武)を主祭神とし、阿蘇大神(健磐龍/たけいわたつ)が筑紫への下向に際し、神武宮居址に社殿を創建して祖父の神武を奉祀したことが始まりと伝える。景行の熊襲遠征の際に再興され、応神の時に日向国造老男(おいお)が祭ったと伝えるが、延喜式・神名帳には記載がない。
鹿児島県姶良(あいら)郡隼人町宮内に鎮座する鹿児島神宮の祭神は、天津日高彦穂々出見(あまつひこひこほほでみ)と豊玉比売で、相殿に帯中比子(たらしなかつひこ/仲哀)、息長帯比売(おきながたらしひめ/神功)、品陀和気(ほむたわけ/応神)、中比売(応神皇后)が合祀されている。蛮族視されている隼人族が奉斎(ほうさい)しているのだ。祭神の天津日高彦穂々出見は山幸彦で、神武に繋がり、兄の火闌降(ほのすそり)が海幸彦で隼人の祖という系譜だ。
肥前国(佐賀県)に淀姫神社があり、祭神は海神世田姫だ。淀姫とは豊臣秀吉の側室の名ではなく、海神の娘の豊玉姫のことだ。『肥前風土記』に、応神朝のとき、鳥を飼い馴らすことから鳥屋郷と称されたが、後に鳥栖郷と称されるようになったという。


■長門・讃岐
長門国の豊浦(とよら)宮址は、仲哀の宮殿跡といわれるが、『長門国守護代記』や『長門国一宮大宮司次第記』という史料は、豊浦宮は仲哀朝9年、神功朝63年、応神朝41年の都であったと伝える。仁徳朝に至って難波に移建したという。また『源平盛衰記』は、長門国に濱御所、黒戸御所、上箭御所という三つの御所があったと載せ、それぞれ仲哀、神功、応神の御所に比定されている。域内の武内宿禰の廟址とされる塚には巨石があり、安良姫(やすらひめ)の墓というのもある。
長門国豊浦にある住吉坐荒御魂(すみよしにゐますあらみたま)神社の神主になる穴門践立(あなとのほむたて)は、天津彦根(あまつひこね)を祖とし、凡河内国造や額田部湯坐連と同祖族だ。践立の名は、応神の和風諡号の誉田別の誉であり、応神と深遠関係があると見られている。
讃岐は古書に、讃吉、紗抜、讃芸などとも記される。新撰姓氏録では神櫛別(かみくしわけ/景行の子)を讃岐国造の始祖とし、旧事本紀・国造本紀では「讃岐国は神櫛王の一族によって開拓され、応神朝に改めて讃岐の地が神櫛王の後孫に下賜された」と説明する。
同書に「小市国造、軽島豊明神(応神)御世、物部連同祖、大新川命孫、子致命定賜国造」とあり、新撰姓氏録に「越智直、石上同祖、神饒速日命之後也」とあって、ニギハヤヒの後孫が応神朝に改めて、その領有地を賜ったということになる。小市国(おちのくに)は東伊予を総称し、中世は道前(どうぜん)5郡と称された。大山積神の後裔である越智氏の本拠とされる。


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