新解釈・日本書紀 応神<第73回>

伴野 麓
日付: 2023年02月28日 12時53分

(91)鍛冶・機織・酒造の技術者も渡来

 古事記によれば、和邇吉師(わにきし/王仁)は、論語10巻と千字文1巻だけでなく、卓素(たくそ)という名の韓鍛(からかぬち/鍛冶の技術者)や西素(さいそ)という機織り技術者、仁番(にほ)またの名を須須許理(すすこり)という酒造りができる者などを同道している。
石上神宮(奈良県天理市)に伝わる百済七支刀(しちしとう)が示すように、武器、農機具、工具、貨幣などを製造する百済の製鉄加工技術は高い水準にあり、鍛冶屋卓素の渡来以後、倭国での鍛冶工業は革新的に発達した。が、日本で製鉄が行われるようになったのは6世紀からだとされているので、卓素の製鉄は、限定的なものであったかもしれない。
古事記に須須許里が醸(かも)し献じた酒に、ほろ酔いとなった応神が大坂道中の大石を杖で打ち、歌を詠んだとの記載がある。関屋から河内へ越える所を大坂という。古事記伝は「その道は昔、往来が頻繁な大路だったが、今はそうではない」と記している。後世、穴蒸越ともいった。
延暦儀式帳に味酒鈴鹿国(うまさけすずかのくに)とあり、須々許里が酒を醸したことにちなんで、味酒が枕詞になったとされている。鈴鹿郡と河曲(かわの)はいにしえ、川俣(かはまた)県と称された。
スサノオが八岐大蛇を退治するときに八塩折(やしおり)の酒を醸したが、須須許理がもたらした酒造法は、従来よりアルコール濃度の高い酒を醸す方法であったという。前者がカミ酒、後者が一夜酒と称され、一夜酒は須須許理が祖とされている。秦造(はたのみやつこ)は醸造の技術をもっていたことから酒神として祀られてもいる。
地名辞書・大和国に、百済という地が載っている。葛城川(広瀬川)と重坂(へさか)川の間の村落で、現在の大和高田のあたりに比定される。百済宮や百済川などの名称もある。百済川は重坂川に比定され、壬申の乱に大伴連馬来田(まくた)と弟の吹負(ふけい)が兵を起こした百済家もこの地にあったと推定される。
大和国の百済という地名は、応神朝に渡来した百済人が居住したことで生じたとされるが、大和国の百済と河内国の百済とが混同されるきらいがあり、建内宿禰が新羅人らに造らせたという百済池(堤)は、大和の百済なのか、河内の百済なのか、定かでない。
新羅人らに造らせた堤であるなら、新羅池と命名すればよさそうなものを、百済池と称したのは、新羅人の実体が韓地南部の伽耶人であって、後に新羅に併呑されたから、新羅人と称された可能性が高い。その当時の伽耶は、沸流百済の影響下にあった弁辰諸国と思われる。
地名辞書・大和国によれば、御所(ごぜ)市の東部を古くは掖上(わきがみ)村、もっと古くは桑原郷と称し、応神朝に渡来した弓月君の郎党は、この掖上の地に居住した。弓月王の後裔に秦氏がいるが、和名抄に高市郡波多郷が載っていて、後に高取村舟倉(ふなくら)村と改称、高市村畑に波多神社が鎮座する。


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