日本を舞台とした南・北韓間の戦い、朴正煕大統領と金日成・金正日間の闘争は、しばしば当事者たちの予想外の方向へと発展、波及し、意外な効果を呼んだ。
物理学で観察される「作用」と「反作用」のような現象がこの闘争でも現れ、「挑戦」と「応戦」として歴史に記録された。
この歴史の挑戦(作用)と応戦(反作用)の良い例が、朴大統領の決断で始まった墓参団事業と、この墓参団に強いられて平壌側が受け入れざるを得なくなった対応措置・「祖国訪問団事業」で見ることができる。
朝総連系が「墓参団」として初めて訪韓した時に、空港では珍奇な風景があった。平壌側の洗脳がどれほど徹底したかを確認することができる。
海外旅行そのものが初めての人々がほとんどだったが、墓参団で数十年ぶりに故郷を訪問するので当然ながら、電子製品など多くの贈り物を準備し、食べものもたくさん持ってきた。
南朝鮮(韓国)住民は、米帝の植民地の下で飢えているという、平壤の宣伝を事実と信じ込んだ朝総連系の多くは、南朝鮮の親戚たちへわたすための米やおかずはもちろん、飛行機に搭乗の直前に炊いた温かいご飯をビニールで包んでダンボール箱に入れて持ってきた場合も少なくなかった。
「北送」親戚から砂糖や調味料などを送ってほしいという手紙を受けてきた朝総連系としては、北韓よりも悲惨だという韓国の親戚などが、白米など食べられないと考えるのは自然だった。
もちろん、彼らはすぐ、金日成と労働党に徹底的に騙され篭絡されたことが分かった。初の墓参団の訪韓感想は瞬く間に日本全国に広がり、翌日から韓国に到着する墓参団参加者は、米や温かいご飯を持参することはなくなった。
在日民団を前面に出した大々的な墓参団事業で、労働党在日党(朝総連)基層組織が急速に崩壊するや金正日は結局、「在日党」の要請通り、朝総連系の北韓訪問を許可するしかなくなった。1979年8月12日から「在日同胞短期祖国訪問団」事業が始まった。「短期祖訪団」は多い時は年間3000人以上が北韓を訪問した。だが、「短期祖訪団」は金日成神政独裁体制に「トロイの木馬」となる。要するに「短期祖訪団」は、あらゆる対策にもかかわらず、金日成父子が自ら毒を飲んだ結果となる。
在日韓国・朝鮮人たちは墓参団と「祖訪団」を通じて南北韓の社会、体制の断面をありのまま見ることになった。「墓参団」で韓国を訪問するときとは違って、「祖訪団」として北を訪問する朝総連系は、北韓から手紙などで要請してきた生活必需品や食品、古着などを持っていった。現金も準備したが、在北親類は、党に奪われやすい現金よりは目立たなく現金化しやすい物品を望んだ。
新潟には「短期祖訪団」を支援するため、東京の労働党在日党(朝鮮総連本部)の出張所が設けられた。彼らは北韓住民が最も必要とするものが何なのかを教えるとともに、訪朝のときに持っていけば良い物品を購入するような支援も行った。北韓を訪問した朝総連系は、当局の監視の中で家族・親類に会ったが、日本の事情はもちろん、韓国事情も北韓全域に広がり始めた。
「祖訪団」には墓参団として韓国に行ってきた人々も多かったため、韓国の事情も北韓全域に広がった。韓国に住む親戚の話も自然に伝えられた。
北韓人口の2%程度の在日朝鮮人とその在北血肉たちは、北韓社会を揺るがした。
(つづく)