新解釈・日本書紀 応神<第71回>

伴野 麓
日付: 2023年02月14日 10時46分

(88)機織りや裁縫が広まる・つづき
池田市あたりは旧称豊島(てしま)郡秦上郷・秦下郷と呼ばれた地域で、機織りと関係の深い秦氏の居住地とされている。「摂津志」によれば、池田は和名抄に記す秦郷の中にあった。上島鬼貫(うえじまおにつら)の俳句「棹のうたは松の声のみ鍬つつみ」は、「昔の海、中頃の淵、今は田夫が疇まくらをなして夢と為る、織女の歓楽の跡をおもふて、池田の唐船淵(とうせんがふち)をよめる」とある。
阿知使主・都加使主ゆかりの地名は各地に散在する。京都府亀岡市大字余部あたりの旧称漢部郷は「あまるべ」郷と読まれているが、実際は百済から渡来した漢人の意の「あやべ」だとされる。
滋賀県の秦荘町大字蚊野地区は、もと愛智(えち)郡蚊野郷と呼ばれ、阿知使主の裔孫である蚊屋宿禰氏や蚊屋忌寸氏が繁栄した故地だ。現在、彼らの祖神を祭る延喜式古社の蚊野神社が鎮座している。
魏志・倭人伝によれば、邪馬台国の卑弥呼は、斑布・倭錦・絳青絣(赤青色の荒織の絹)・帛衣(絹衣)・孔布などを魏王へ贈ったとされるが、それらを織ったのは原始機(無機台機)であり、応神朝に渡来した衣縫女らによって、古式布機(有機台機)が伝来したと見られている。

(89)中国大陸の呉ではない
日本書紀・応神紀に、阿知使主・都加使主が兄姫・弟姫・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)の4人を連れてきたとあるが、同・雄略紀にも「身狭村主青(むきのすぐりあお)らは呉国の使いと共に、呉の献った手末(たなすえ)の才伎(てひと)・漢織(あやはとり)・呉織と衣縫の兄姫・弟姫らを率いて住吉(すみのえ)の津に泊まった」という記事があり、それら二つの記事は同一だという見方がある。4人のうち、弟姫は漢衣縫部(あやのきぬぬいべ)になり、漢織と呉織は飛鳥衣縫部(あすかのきぬぬいべ)の先祖になった。檜隈寺(ひのくまでら)跡の裏手に栗原という集落があり、そこに呉津彦(くれつひこ)・呉津姫神社が鎮座する。
呉を中国の呉(南朝)とする見方もあるが、南朝とは、中国の南北朝時代、華南地域にあった諸王朝のことで、420~589年にわたり、漢族の立てた宋・斉(南斉)・梁・陳・呉・東晋の6朝を指称する。当時の倭国が呉(南朝)と通行していたという状況証拠は乏しく、「呉は遠い南の国と意識されていた架空の国である」とする論者もいる。
「応神朝は、国力の充実と発展をはかるために中国大陸から文物を輸入し、技術者を招いた」という説もあるが、「国力の充実と発展をはかるため」には異議がないにしても、中国大陸から云々という論にいたっては錯覚といわねばならない。
阪神電鉄西宮東口近くに松原神社があり、その向かい側の小さな稲荷社の入口に「史跡 漢織 呉織松染殿池」とした石碑が、赤い鳥居の横に建っている。武庫の港に上陸した彼女らが、かつて「漢織呉織の松」と呼ばれた大きな松の木に身をよせて休息し、はるか故国をしのんだという。その松の近くの池から、染織のための水を運んだので染殿池と呼ぶようになったと伝えられているが、今は水も枯れ、雑草がおい茂っている状態だ。


閉じる