(86)阿知使主(あちのおみ)は檜隈郷(ひのくまごう)に定着
日本書紀によれば、阿知使主は、応神20年(409年)に17県民を率いて渡来した。応神37年(426年)には縫工女を求めて、高麗国(こまのくに)の久礼波(くれは)・久礼志(くれし)の2人を道案内にして呉へ行き、兄姫(えひめ)、弟姫(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の4人を伴って筑紫に帰ってきた。そして兄姫を宗像大神に奉り、あとの3人をつれて津国に至った。武庫についた時、応神が崩御したので、3人を大鷦鶺(おおさざき/仁徳)に奉った。
久礼を「句麗」と解釈して、高句麗を指称するという見方があるが、沸流百済と敵対関係にあった高句麗から、呉への道をよく知る人を探し出す必然性はどこにもない。久礼は呉、すなわち仇乙とも書かれる熊津のことであろう。沸流百済の都城である熊津人だから、久礼波・久礼志は、呉=熊津の道をよく知っていたのだ。
余談だが、生姜を「久礼波士加美」と表記し、「クレハジカミ」と称したが、久礼(呉)の地の産物だったのか、それとも久礼の人が持ってきたものか、気になる熟語だ。
阿知使主が連れてきた縫工女が津国に着いたとあるが、その津国は摂津国の難波津に比定されている。難波津が一国に匹敵するほどの大変な賑わいを見せていたから、国としての扱いを受け、津国と称されたのだろうという。
弓月君が120県民を率いてくる時は新羅に妨害されたわけだが、阿知使主の時は妨害を受けなかった。それは任那港が、沸流百済の管掌する自由港として維持されたからだと思われる。
新撰姓氏録・逸文によれば、阿知使主・都賀(都加)使主(つかのおみ)の裔孫は、大和国高市郡檜隈郷に定着し、都加使主の子孫は三腹にわかれたという。高市郡檜隈郷は、現在の奈良県高市郡明日香村にあたり、”鬼の爼(まないた)”や”鬼の厠”などの遺跡がある。兄腹は山木直(やまきのあたい)氏、中腹は志努直(しぬのあたい)氏、弟腹は爾波伎直(にわきのあたい)氏と称し、山木直氏からは25姓、志努直氏からは23姓、爾波伎直氏からは8姓、つごう56姓が派生したという。
当時、1姓の家族数は戸主、戸口(家族)、寄口(作男)などを含めると平均20人ほどになるとされるから、56姓だと1120人におよぶ。56氏のうち最も繁栄したのは、征夷大将軍として名を馳せた坂上田村麻呂を輩出した坂上氏だ。『坂上氏系図』によれば、阿知使主→都加使主→志努直→駒子直→弓束直(ゆづかのあたい)→老連(おきなのむらじ)→大国(おおくに)→犬養忌寸(いぬかいいみき)→苅田麿(かりたまろ)→田村麻呂という系譜となる。
『奈良県名勝志』によれば、宇陀郡伊那佐村大字山路に伊那佐山(いなさやま)があり、山上に都賀那木(つがなき)神を祭るといい、都加使主に縁があると見られている。