日本社会の無知と誤解、錯覚を利用した平壌側の対南工作、韓国転覆工作は当然、李善実(申順女)のような工作員浸透や地下革命組織構築の次元にとどまらなかった。革命のための地下党の構築は、大韓民国への赤化戦略、共産圏の自由世界転覆戦略の一部に過ぎなかったからだ。
日本のメディアは、例外的な場合を除いて、平壌側はもちろん、共産陣営の韓半島赤化工作の恐るべき本質をまともに取り扱ったことなどほとんどない。これは平壌側が朴正煕大統領暗殺を再三試みたときや、全斗煥大統領暗殺を試みたとき、日本人の原敕晁に成りすました北韓工作員が逮捕されたとき、ソウル・オリンピック妨害のため大韓航空機空中爆破テロを犯したとき、日本の言論は、事件を社会部の事件次元で報道した。
平壌側が日本人を組織的に拉致した国家テロ・戦争行為までも単純な刑事事件、疑惑と報道した。 つまり、体制戦争、理念戦争、テロ戦争を刑事事件として扱った。
李善実事件が公開された後も、日本のメディアは、報道する場合も、共産全体主義体制側が自由民主体制を暴力的方法で転覆を図ったという本質は伝えなかった。韓・日間の情報共有が完全に断絶された状況が、韓日両国関係、さらには自由民主体制を共同で防御するのにどれほど致命的な脆弱性をもたらしたかを指摘した報道は全くなかった。
日本社会が、韓半島の冷戦で平壌側の暴力路線に無関心、日本がその基地となった状況を放置したのは、いや日本の左翼や多数のメディアが、平壌の対南赤化工作に意識的、あるいは無意識的に同調したのは 平壌側の工作によって彼らが掌握されたためだった。
平壌側が、「敵区」である日本に、冷戦の「戦線司令部」の朝鮮労働党日本支部を組織した経緯は、長い説明が必要であるため、それに対して詳述するのは別の機会にすることにする。ただ、議会民主主義を発展させた前後の日本政治で、平壌側の肩を持つ強固な拠点が作られ、これらが韓日国交正常化の後も金日成の極端な個人崇拝の独裁体制を支持・支援、韓国を攻撃したことは歴史的事実だ。
戦後、日本で共産革命の中心は当然、日本共産党だった。この状況は6・25戦争の休戦後も続いた。平壌側と日共の間で葛藤が本格化するのは、金日成が日本国内の朝鮮人共産主義者、そして彼らを通じての韓半島共産革命活動の指導権を要求したことから始まったと専門家らは見ている。
日共と朝鮮労働党の関係が回復できない状況であることが表面化したのは、金日成が朴正煕大統領を殺害するため特殊部隊をソウルに送った「1・21事態」(1968年1月)だった。日本共産党は、平壌側の暴走を「科学的社会主義とは無関係な、冒険主義」と厳しく批判した。平壌側は日本共産党に反発、これで双方は決別する。
平壌側は日本共産党に代わる社会党工作に取り組み、日本社会党獲得・掌握に成功した。朝鮮労働党と友党関係となった日本社会党は、北側を代弁するようになった。日本の第1野党を代弁人として確保したのは平壌側の大成功だった。いずれにせよ、平壌側は日本社会を両分する社会党、「革新界」が持っているあらゆる政治・社会的インフラを存分に利用できるようになった。朝鮮労働党日本支部(朝総連)は、日本政治とメディアから確固たる支持、保護を受けるようになった。左翼だけでなく、韓半島に対する「南・北等距離」路線を模索した非左派はもちろん、当局の暗黙的な庇護も受けるようになった。
(つづく)