ノースコリアンナイト 最終回

消えた憐憫の情
日付: 2022年12月09日 12時12分

 ドンスの家に戻り、彼を包んだ白い布を引っ張り、体を正しい方向に向けた。北朝鮮では、人が死ぬと頭を玄関の方に向ける。自宅で葬儀を行う北朝鮮では、3日目に死者を棺桶にいれて運ぶことから生まれた風習だ。生きている者が頭を玄関に向けて寝ると、ひどく怒られる。
ドンスの部屋にある家具の中身をひとつひとつ、チェックした。貴重品があったら、万が一のときに備えて対策が必要だと思った。万が一とは、ドンスの母の帰りが遅くなったときに、遺体が放置されたままだと虫がわいてしまう心配がある。遺族の許可なしに処分しても問題がないような遺品の品々だったが、当時の私には簡単に捨てられる物のようには見えなかった。ドンスの母の基準は分からないが、私の基準で大事だと思う物には、何らかの対策をしたかったのだ。
部屋のチェックが終わり、台所のチェックを始めようとしたときに、ジョン先生が来た。「ドンスを看るのも最後だね」とつぶやき、ドンスのそばに寄った。脱脂綿と、薬の入った小瓶を取り出した。薬剤を吸い込ませた脱脂綿で硬い球を作り、鼻や耳などに詰めた。
私が台所のチェックを終わらせたとき、ジョン先生はまだ手を動かしていた。その光景を静かに眺めた。現実ではなく、映画の一場面を観るようで、その様子を美しく思った。心の中に小さな揺れを感じた。死者と生者との交感があるその光景に、なぜか恋をしたときのような心の揺れがあった。ジョン先生は私の視線を感じたのか、一瞬私を見て、また手を動かし始めた。一瞬だけ私を見たジョン先生の目から、憐憫の情を感じた。ジョン先生はドンスに憐憫の眼差しを向けたまま作業をしていて、その心が私に移ったのかもしれない。
ドンスが亡くなったことに対して、先ほどまで胸にあったつらさが薄らいだ。胸の中が温かくなったことで部屋の寒さを感じなくなり、胸の奥から甘い感情がこみあげ、ちょっと前まで空腹だったのも感じなくなった。ジョン先生に、いや、人間の美しさに初めて経験する甘く、香ばしい恋心だった。この感覚を長く感じたくて、体を動かさず、息も極力抑えた。そのときに、トントンと大きなノックの音がして、私の心に広がった貴重なシャボン玉のような思いが壊れた。ジョン先生の作業を邪魔させたくなくて、私は急いで外に出た。そこにいたのは、隣家の世帯主だった。私はドアを開けながら「静かに」と、唇に指を立てて合図をした。驚いた目で後ずさりをする彼に、静かな声で「あなたにはドンスの家が必ず要るの?」と聞いた。すると彼は、「はい」と即答した。
自分が働いて稼いだお金ではないが、経済的資産を独占したい欲求を隠さずに答える彼にも、憐憫を感じた。隣家の子どもが死にかけても見舞いに来るどころか、その死を最大の機会だと食いついてくる。こんな人間に対し哀れみと憎しみが混ざった感情より、また別の種類の憐憫が勝ったのかもしれない。私は彼に言った。「あなたがお金と権力を見せびらかすのを見たくない。あなたにひとつだけお願いがあります。ドンスの葬式が終わるまでは、静かに哀悼を表してください」
すると彼が「ドンスの母の帰りを待つつもりですね? ドンスの母が帰ってきたら、この家を譲るという確信はありますか?」と、淡々とした口調で質問をした。さっきまでの憐憫の情が瞬時に消えて、人に対して感じるはずの感情さえもなくなり、ただ唖然として、彼と同じ空気を吸うことすら拒絶して、私は一瞬、息を止めた。
ほんの少し前まで、ドンスの家で感じていたあの幸せな感情を一瞬で壊した彼と、1秒でも一緒にいたくなかった。「待ってて!」と言い放って、私は急いでドンスの家の中へ戻った。現実に戻った私を空腹感が激しく襲ったこともあり、私は気持ちが悪くなった。家の中に入って、壁に背中をつけ、ゆっくりと滑らせて床に座った。ジョン先生が「顔色が悪いですよ」と言いながら、倒れそうな私を支えてくれた。
 ※「ノースコリアンナイト」は今回で終了となります。


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