新解釈・日本書紀 応神<第64回>

伴野 麓
日付: 2022年11月30日 11時39分

(80)日本列島に初めて百済の馬が登場・つづき
かつての百済の領域では、アジェ(日本語の叔父という語意)は、日本語とほぼ同じ意味で使われ、北の方では叔母という意味もあったそうだ。なので、阿直岐=阿知吉師は固有名詞ではなく、吉師の頭(かしら)の意味にもなるとの見方もある。
吉師はもともと一族の長につけられる敬称だ。北史・百済之国によれば「古姓呼為鞬吉支、夏言竝王也」とあるから、百済では王族を意味したようだ。「鞬」は総の意だ。
吉支が、新羅の17階官位の14番目の官位であるのは、かなり後のことであったとされ、百済での最高位の官位が、新羅では軽んぜられたのかもしれない。
阿直岐はまた経書をよく読んだので、誉田(応神)は菟道稚郎子の学問の師とした。経書とは儒学の経典のことで、四書五経などと称される。誉田が阿直岐に「お前よりもすぐれた学者がいるのか」と尋ねると「王仁というすぐれた人がいます」との答えが返ってきた。それで、上毛野君の先祖の荒田別と巫別を百済に遣わして王仁を招聘した。
応神16年(405年)の春、王仁(書首らの先祖)が渡来してきて、菟道稚郎子の師となった。王仁は、論語と千字文(漢字)など諸々の典籍をもたらし、すべてによく通じていた。

(81)古代の日本語は古代の韓語
1998年10月に金大中大統領が日本を訪問した際の宮中晩餐会で、当時の明仁天皇(現上皇陛下)は「応神天皇の時、百済から経典に詳しい王仁が来日し、応神天皇の太子、菟道稚郎子に教え、太子は諸典籍に深く通じるようになったことが記されています。後には百済から五経博士、医学士、暦博士などが交代で来日するようになり、また、仏教も伝来しました。貴国の多くの人々がわが国の文化の向上に尽くした貢献は極めて大きなものであったと思います」と述べた。
王仁は、論語と千字文を伝え、百済仮名と呼ばれる百済の吏読字を模倣して、日本仮名が生れ、それが現在の日本字(倭訓)であるという。倭が、沸流百済の属地としてその教化を受けたことを雄弁に物語るものだ。
ところで、論語(儒教)の果たした役割に関する研究が皆無に等しい状況であり、どうしたわけか、後世に伝来した仏教の功徳が盛んに説かれている。まことに不思議な扱いだ。
古代の韓半島に漢字が入ってきたのは、中国の古文献によると、日本列島より300年ほど先行しているという。ということは、日本列島に伝来した漢字は、その当時の韓半島で使用されていた漢字音ということになる。つまり、古代の日本語は、古代の韓語だということだ。


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