(79)沸流百済を認識しない錯覚論・つづき
4世紀のはじめ、漢4郡の一つである楽浪郡が高句麗に滅ぼされ、韓半島南部の弱小国家が、百済と新羅に併呑されつつあったため、その大変動によってはみ出した人たちが、海をわたって応神王朝の傘下に入ったという説がある。王仁(わに)や阿知使主(あちのおみ)のような漢文化を身につけた人々も韓半島から渡来してきたのであり、応神王朝は日本における最初の広域権力だったという見方だ。そして、王仁や阿知使主を伝説上の人物としている。
しかしそのような解釈は、どこか釈然としない。沸流百済を認識しないことからくる、とんでもない錯覚論のように思えてならないのである。
(80)日本列島に初めて百済の馬が登場
応神15年の秋、百済王は阿直岐(あちき/阿直岐史等/あちきふひとの先祖)を遣わして良馬2匹を奉った。古事記では「百済の国王照古王(しょうこおう)が牡馬一疋・牝馬一疋を阿知吉師(あちきし)に付けてたてまつった」と記し、馬をもたらしたのは阿知吉師としている。
魏志・倭人伝は「其地無牛馬虎豹羊鵲」と記し、卑弥呼の時代(240年頃)には牛馬は見当たらないと述べている。応神時代(400年頃)に阿直岐が良馬2匹を倭地にもたらしたことで、日本列島に初めて百済の馬が登場したということか。その良馬を大和の軽の坂上の厩で飼わせ、阿直岐に掌(つかさど)らせた。
阿直岐は、阿自岐、阿知使主、阿智王などとも表記される。新撰姓氏録には安勅連、日本書紀・天武紀には阿直連などの名が見え、山城国には味木氏がいた。 和名抄に安芸国沼田郡安直郷があって、安直は阿智と同じとされ、阿直岐の姓氏より出たと見られる。後世、アチカと訛り、安直は安鹿とも表記される。
琵琶湖畔の近江八幡市に阿自岐(あじき)神社が鎮座し、阿直岐史の祖、阿直岐を祭神としているが、豊郷村史では、阿自岐は「祭神・阿自須岐高彦根(あじすきたかひこね)神の阿自須岐の約音である」としている。後世、阿直岐と阿自須岐が混同されたのではないかと思われる。
阿直岐の渡来は410年前後と考えられ、軽坂上の厩は現在の奈良県橿原市大軽町あたりに比定されている。厩坂(うまさか)は美作(みまさか)にも訛ったようだ。1987年(昭和62年)12月、大阪府八尾市若林町の八尾南遺跡から、古墳時代中期(5世紀中頃)の木製の鞍が出土した。幅40センチ、厚さ2~3センチで、材質は、カシ、クヌギなど硬い樹木で、立てたときの高さは22センチということだ。木製の鞍は、大阪府堺市の陵南(りょうなん)遺跡、奈良県の谷遺跡、福岡県の吉武(よしたけ)遺蹟などでも発掘されているから、次第に普及していったことが窺われる。
ところで、韓国語のアジェという語は、日本語の叔父という語意だ。アジェ↓オジと転訛したと考えられる。阿直岐の阿直、阿智使主の阿智がアジェの漢字表記との見方もある。父方であったか、母方であったかは定かでないが、阿直岐や阿智使主は、応神の叔父(伯父)であった可能性もある。