新解釈・日本書紀 応神<第62回>

伴野 麓
日付: 2022年11月15日 12時27分

 (78)秦氏は葛野地方に入植・つづき
鎌倉時代後期に成立した私撰和歌集の『夫木集』に、衣笠大臣(衣笠家良/きぬがさいえよし)が詠んだ「軽島の 明の宮のむかしより つくりそめてし 韓人の池」という歌があるが、江戸時代の『大和志』は「韓人の池」を唐古池に比定している。渡来韓人によって作られた池はこの唐古池に限らず、各地に韓池や辛池、新羅(白木)池、百済池といった名称で昔から伝わっている。唐古池は現在も潅漑用池として使われているそうだ。
新撰姓氏録・左京諸蕃には、弓月王の子・真徳王と普洞王が、仁徳より「波陀(秦)」の姓を賜ったという内容が記載されている。
葛野の親里は、葛野郡葛野郷の太秦村で、融通王(弓月君)が120県民を率いて定住した本拠地とされる。機織を生業としたことから、秦氏と呼ばれるようになった。山城国はもともと賀茂と松尾の両族が栄えた地とされ、秦氏族が定住してますます発展した。
秦氏は、山城国葛野郷(現・京都市右京区)に入植して大井川(桂川)を改修し、雄略朝(5世紀中頃)の頃には全国に散在。服部郷、波多郷、幡多郷といった村名を起こして、農耕や養蚕、機織などを生業とし繁栄した。
葛野郡を流れる大井川(丹波国桑田郡保津村に端を発しているために保津川ともよばれる)は、峡谷を流れる急流で雨期には氾濫し、人々の居住や農耕は困難だった。しかし秦氏が保津川を改修して大堰(川水をせき止めるダム)を作ったことで、氾濫をまぬがれるようになった。大堰から大井川と名が変わり、交通の要地である桂あたりからは桂川と呼ぶようになった。桂は七条通りの端にあたり、摂津路と丹波道の分岐点だ。今日では渡月橋あたりから桂川と呼ぶ。
奈良時代の木簡によると、秦氏は、若狭国遠敷郡でも栄え、遠敷郷、丹生郷、野郷、木津郷(後に大飯郡)、阿遠郷(後に大飯郡)に居住して、塩などを朝廷に貢納した。

(79)沸流百済を認識しない錯覚論
応神紀に、木工や造船にたずさわったという猪名部(いなべ)の始祖が新羅王から貢献されたとの記事があるが、この猪名部と秦氏とは密接なつながりがあり、秦氏と新羅との関係には軽視できないものがある。また秦氏は、伏見稲荷大社の韓神(からかみ)に絡んでおり、日本の芸能との関わりも深い。世阿弥は秦氏安(はたのうじやす)より数えて29代目の子孫として秦姓を名乗っており、申楽や神楽の一座には秦の姓が目立つ。
但馬故事紀に〈秦氏帰化・養蚕製糸等の記録〉として次のように記されている。
「仲哀8年、秦始皇帝の13世孫である孝武王の息子の功満王(こうまんおう)来朝す。応神14年、功満王の息子の融通王(弓月君)が来朝し、表をたてまつり、国に帰る。さらに127県の百姓を率いて帰化し、金銀・玉帛等の方物を献ず。天皇これを嘉(よみ)し、大和朝津間腋上の地を賜わり、居らしめ給う。この融通王は、真法王・普洞王(ふどうおう)・雲沙王・武良王(むらおう)を生む。仁徳天皇の御世普洞王に姓『波陀(はた)』を賜い、諸郡に派遣し、綿帛(けんぱく/絹織物)を織らせ、また秦氏人を督励して、これを織らしむ。天皇ある日、普洞王が献ずるところの生絲・真綿・絹帛を召す。服用する絹帛柔軟にして肌膚温暖なり。天皇これを嘉し、絹帛と名づけ、柔軟と曰し給う」


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